2023年09月09日

京都古典文学めぐり

 荒木浩さん著『京都古典文学めぐり 都人の四季と暮らし』(岩波書店、2023年6月)。
これも、ご紹介がものすごく遅れてしまったが、もともと京都新聞に連載された研究エッセイを元に、三十二のトピックについて、原文を引きつつ、訳しつつ、それをただ解説するだけではなく、別のテキストとの関係や、当代の人の考え方・感じ方や、政治の中に置いたとき文学の意味や、表現の機微について、自在に語り尽くした快著である。
 ハンディな造本だし、一般読者向けに書かれているとはいえ、しっかり研究史を踏まえ、該博な知識と、連想力で、他の追随を許さない魅力的な古典エッセイになっている。
 荒木さんの本来の専門は、今昔物語集や宇治拾遺物語をはじめとする中世説話といっていいのか、多分そうなのだろうが、源氏物語や徒然草についても単著を持ち、どれも深く、広く、大胆かつ細心な議論を展開するもので、そこに感じるのは、本物の「筆力」である。多筆の人は、時々いるが、荒木さんのような、間口の広さと質の高さと視点の独自さを併せ持つ筆力の持ち主にはそうそうお目にかからない。
 おまけに、職場が国際日本文化研究センターだけあって、海外の研究者人脈も、古典文学研究者として指折りであり、その交流の豊かさが、やはり文章の広がりとなって現れているように思うのである。
 それにしても、本書は中古・中世の古典が中心となっているが、「夢」の話が多いなという印象を受けた。「夢」はかつて荒木さんが取り組んでいた共同研究のテーマなのだが、京都という、中心の場を舞台にしているからこそ、「夢」の登場がおおくなるとすれば、これは面白い。
 また、古典文学は、一面では京都(という地方)文学である。とくに中世以前はほぼ京都で書かれたものが文学史を構成しているのだから仕方ない。秋成は、京都は人柄も文化も貧しいけれど、自然はいいという意味のことを述べているが、私たちの四季意識というのは、やはり京都のそれを反映しているのだろう。都であることと、自然が豊かであることは全く相反しないのが、中世以前の古典の世界である。
 しかし、江戸時代になると、京都の文学というのはちょっと論じにくくなるように思う。一方に新興の「江戸」文学がある。本書には、江戸時代の作品はほとんど出てこないが、もし続篇があるのなら、荒木さんに是非論じてほしいと願っている。
 
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2023年09月08日

片假名版と平假名版

 今西祐一郎先生の「片假名版と平假名版ー江戸時代出版の一風景」(『東方學』146輯、2023年7月)は、江戸版本で、片仮名版と平仮名版の両方がある本についての知見を述べられ、多くの図版を掲げる。その図版はほとんど先生の蔵書によると見られ、多くに先生の蔵書印が見える。
 板本書誌学を中野三敏先生の授業で叩き込まれた私たちにとって、漢字ー片仮名ー平仮名の階層性は自明のことであるが、考えてみると、今西先生が指摘するように、国書総目録やそれを引き継いで今にいたる「国書データベース」には、その記載がない。もちろん、1点1点を調査した上で作成されたわけではなく、目録やリストを元に作られた国書総目録に、それを望むのは無理な話なのだが、しかし、それにしても、その階層性を、研究者がこれまでどれだけ意識していたかは、心許ないかもしれない。モノとしての本の重要性や書誌学・書物学の発展によって、今では古典研究者であれば、ほぼそれを意識していることは間違いないにしても、教育的配慮と称して、片仮名表記をいとも簡単に平仮名表記に直していることは、私自身がやってきたことである。
 今西先生の論文で、あらためて思う。先生が図版で示しておられるように、江戸の書籍目録ではそのことをはっきりと意識していることが示されている。そして、通俗物や軍記・仏書など、片仮名表記という形式をもつ本たちを一度あらためて確認してみる必要があるかもしれない。また挿絵は平仮名表記との方が親和性を持っているというのも、言われてみればその通りである。
 個人的には「仮名読物」というタームをここ15年ばかり使っていて、その場合の仮名は、平仮名も片仮名も含むのだが、「仮名読物」という言葉の使用も、ちょっと考える必要がありそうだと、反省した。
 
 
 
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