2023年10月30日

学会記(東北学院大学)

東北での学会は、30年くらい前の秋田以来、仙台となると私の記憶にはないので、40年以上前だろう。会場は東北学院大学。仙台駅からひと駅、5分歩いて到着というロケーションの良さだ。
飛行機でいくつもりが、ドジをして新幹線往復となった。しかし、そんなに遠い感じはしない。
恒例の学会記。今回はハイフレックスでの開催。もっとも参加者名簿がないため、どういう方が参加しているのかはわからない。会場には70から80名くらいだったろうか。
発表者は6名、それに講演と、並列して行うワークショップ3件。これが初日である。伊達騒動と文学を扱った講演は面白かった。
今回の目玉は若手の企画したワークショップ。「文学史」「教育」「デジタル化・国際化・学際化」がテーマ。私は、3番目のに参加。30名弱の参加だっただろうか。どういう形になるのか、とくに事前にアナウンスがなかったのだが、参加者全員がまず一言ずつ自己紹介とこのテーマに関わる所見を述べ、あとは雑談的な展開であった。デジタル化・国際化・学際化はつながっているので、議論は案外スムースに進んだ。留学生が何人か参加していて、彼らの率直な感想をきけたのがよかった。
デジタル文学地図の授業に参加していたハイデルベルク大学の学生さんが発表。発表後、たくさんの人からアドバイスをもらっていた。和歌題詩に関わる発表と、『玉箒子』という怪談系読物についての発表(ともに若い方)で、拙論が引かれたり、名前が出てたりした。前者の発表は特に私の研究と非常に重なるものだったので、質問。和歌と漢詩の交錯はつまり、歌人と詩人の交流が基になっている、もしかすると画人も絡んでいるというのが私の想像なのだが、それを窺ってみた次第。「性霊派の詩」とは何か?という議論も出たり、活発な質疑応答だった。
土曜日の懇親会。私より年上の方はもはや数えるほどしかおらず、世代交代を痛感した学会ではあった。とはいえ、若い人たちともいろいろ話せたので満足である。70周年記念誌の『和本図譜』もまた、若手の編集だが見本が出来ていた。じっくり見るのが楽しみである。と、年よりっぽくあまり面白くない総括で申し訳ないですのう。
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2023年10月20日

古俳諧研究

 すでに、いくつかのレビューもあるが、河村瑛子さんの『古俳諧研究』(和泉書院、2023年5月)について。私は俳書については、とくに近世前期の俳書については、さっぱりなのだが、この本のことは、私なりに所感を記しておきたいと思っていて、しかしあまりにその内容が充実しているので、なかなか書き出せないでいた。
 しかし、このごろ芭蕉以後といえる享保の俳壇についての研究を少し読み返す機会があり、あらためて芭蕉以前のことに思いを致すことにもなり、本書に少し向き合う時間が降りてきた。
 河村さんは名古屋大学の塩村耕さんの教え子であるが、京都大学で教鞭をとっておられる。河村さんの論文のスタイルのひとつに、俳諧で使われる「ことば」にこだわり、徹底的な用例の検討から、そのことばの一般的なイメージを覆すというものがあって、これは言うまでもないことながら、京都大学の国文学の学風である。京大は、学風にふさわしい研究者をよく外から迎え入れたなと思う。すばらしい英断であったと思う。
 河村さんは『俳諧類船集』を、ツールとしてではなく、正面から研究対象にすえて、古俳諧のことばの世界に切り込んでゆく。そこが新しかったのだと傍目の私には映っている。「ものいふ」「おらんだ」「やさし」を分析した諸論はいずれも、実証と論がバランス良い卓論とお見受けする。芭蕉は、その古俳諧から入ってそれを革新したは俳人だが、第二部での河村流は、古俳諧のことば分析から芭蕉句を照らし出す。
 そして第三部では、具体的な俳書に即した研究を、第四部では、積年の手控えを元に、現在望みうる最高レベルの古俳書年表を提供する。この第四部は圧巻で、今後の古俳諧研究の基本資料となること、疑いない。この年表、書誌的事項に留まらず、かなり突っ込んだ内容解説を備えており、個人の調査としては、大変な労力をかけている。願わくば、実見したものについては、寸法を記していただくとさらに有益だったかと思う。もちろん、実見していないものもあるので、不統一になってしまい。賛否両論あると思うが、「巻子」や「横本」などは特にそれがあればイメージできるので。
 とはいえ、このボリュームは本当に圧倒的で、それを惜しげもなく公開されることに頭の下がる思いである。
 ところで「古俳諧」の定義はいろいろあるようだが、河村さんは大方の使用法にならって、「貞門・談林の俳諧をいう」と冒頭で定義する。考えてみると、我々近世文学研究を学んでいる者にとって、古〇〇、といって思い浮かぶのは、「古浄瑠璃」、そして「古活字」といった言葉である。「古活字」はジャンルを指していないので、そうなると古浄瑠璃と古俳諧がジャンル用語となる。前者は近松の曾根崎心中以前であり、後者は芭蕉あるいは蕉風または蕉門以前ということになるのだろうか?しかし、考えてみると、「古」というのは、あくまで相対的な見方であり、言いかえれば恣意的であるとも言える。俳諧の中で古い方、浄瑠璃の中で古い方ということだ。これは「古」という言い方ではないが、『好色一代男』以前を仮名草子と呼ぶのにも通じている。要するに、近世前期の三人の天才、芭蕉・西鶴・近松を文学史の転換点と位置づけているということになる。別にそこに異論があるわけではない(というより私にはわからないのだが)が、前期読本(初期読本)とか、前期戯作とかいう呼び方とは違うわけで(もっとも俳諧の場合は初期俳諧という言い方はある)、そこはもうすこし、詰めてみる必要もあるのではないかという気がする。
 とまれ、本書の俳諧研究史上の意義はとてつもなく大きいに違いない。拍手である。
 
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暇と退屈という問いを問う

 というわけで、めずらしく、哲学の本2冊を取り上げる。ちょっと読後メモを書きたいので。1冊は9月に出た入不二基義さんの『問いを問う』(ちくま新書)、もう1冊はロングセラーと言ってよい國分功一郎氏の『暇と退屈の倫理学』(新潮文庫)である。
 まず、『問いを問う』に関しては、X(twitter)にくり返しポストしたが、その際は、読みながらエキサイトする気分そのままを書き付けた体(てい)であった。入不二さんは、山口大学時代の同僚であり、それ以来の友人である。彼の哲学は、数学を時に用い、(本質的な意味で)文学的な表現を駆使しながら、いやというほど徹底的に考え抜くスタイルである。本書は大学の教室での哲学入門講義を基にしていて、「どのようにして私たちは何かを知るのか」に始まる4つの問いについて徹底的に深められる認識論・存在論である。本書は入不二さんの著書がいつもそうであるように要約するのが難しい(要約は可能だが、要約すると何かが抜けてしまう感じがある)。哲学というのはなべてそういうものではあろうが、おそらく、彼の思考の過程そのものが読みの愉悦をもたらすのであり、もっと重要なのは読者(である私)が、それに巻き込まれるのである。その巻き込まれる度合いがとても深かったのが今回の『問いを問う』である。なにせ、「問い」そのものを問うのであるから、その問題意識(?)は、きわめて汎用的である。たとえば私は、いま怪異認識のことを考えているが、その問題を考える際にも、この本は実にヒントに満ちているのである。いつの間にか自分の問いを問うているのである。
 『問いを問う』を読んだ後、たまたま目に入った『暇と退屈の倫理学』を読み始めた。これはまた、全く入不二さんの本とは対照的に、読みやすく、解りやすい(気にさせる)本である。スゴいスピードで読めてしまうのである。こちらは倫理学だから、「人は如何に生きるべきか」を考えるための思考となる。この本は、「暇と退屈」を感じるのが、今の(というのは超大昔のヒトはそうではないということだか)人間のあり方の本質とみて、それを考察した過去の哲学者(ルソーからハイデガーまで)の考え方を巧みに、かつ批判的に紹介しつつ、「なるほどなるほど」と頷いている間に読み終わってしまうという本だ。片付けられないタイプの私にとっては、人間が「定住」を知る前は、どんどん移動するのだから、片付ける必要がなかったというくだりが一番受けた。「受けた」と今言ったが、この本は、「受ける」ことを狙った、巧みな叙述の哲学である。読者は著者の叙述芸を楽しんでいる。楽しみながら、多くの哲学者の考え方を知ることができる。ただ、私は暇と退屈には悩まされていないせいか、倫理学として本書を読んだという気はしなかった。暇と退屈という問いを問う切実さが、私にはなかったからである。この本も講義を元にしているらしいが、その講義はとてつもなく面白いだろう。
 
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2023年10月14日

読本研究の現在

『国語と国文学』2023年11月号は、「読本研究の現在」を特集。10本の論考を載せる。発行が明治書院から筑摩書房に移っている。
私も「怪異語り序説ー前期読本への一視点ー」を書いた。前期読本を扱ったものが少なかったこともあって、巻頭になってしまったが、タイトルからわかるように、アイデアレベルの話である。一応「近世怪異文学史」「近世怪談文学史」を構想するとしたら、という前提でのアイデアなのだが、そこには当然「読本」が関わってくるという話。「怪談」という語は、実は近世以前の文献にも漢語にも見出し難い。これは「奇談」も同じ。どちらも談話性に着目すべきであり、史的展望をする場合は、怪異の語られ方の歴史を構想すべきであろう。
 他の9本もすべて注目すべき論考で、「読本研究の現在」を示すのにふさわしい。ベテラン5人、中堅5人という執筆者構成だが、ほとんどの著者が具体的なトピックを扱いながら、大きな問題に及ぶ点で共通している。
 私自身のアンテナにひっかかってきたのは、天野聡一「読本序文における羅貫中・紫式部応報譚」。私も気になっていた問題だった。神戸大学での序文をめぐるシンポジウムでご一緒した時の発表でもあり、興味深く読んだ。山本卓・菊池庸介両氏は、奇しくも速水春暁斎の絵本読本と種本としての実録の関係を論じる。同じく絵本読本を論じる板坂則子氏は江戸と上方で同時期に刊行された妖狐譚とその後の影響を論じて、上方読本を図像重視の立場から再評価しようとする、大きなパースペクティヴを持つ論である。神田正行・三宅宏幸氏の馬琴作品論は中堅の競作と見立てられる。木越俊介氏は氏のテーマのひとつ写本小説の紹介。そして馬琴の『近世物之本江戸作者部類』を精読しつつジャンルとしての読本を掘り下げたのが佐藤悟氏、スタンフォード大学に所蔵される江戸読本の挿絵抄録本から、絵入本の「国際化」に筆を及ぼす高木元氏。ベテランの味である。
 前期読本論が少なかったのは残念だが、やはり近世小説史研究の王道たることを再認識させられる各論考だった。高木氏ではないが、「読本の国際化」はもちろんのこと、「読本研究の国際化」、あるいは「日本文学研究国際化のなかの読本研究」というのが今後の課題となってゆくのかなと思う。
 
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2023年10月03日

古活字版の校正

 現代なら、校正は電子データの上で簡単にできるのだが、江戸時代のように板木に文字を彫って印刷する「整版」の場合、間違った文字を削り取ってその跡に正しい文字を彫った板を埋め込むという作業になるので、大変である。しかし、まだ板木が存在するから、手間はかかるものの手作業での校正は可能である。だが、古活字版はそうはいかない。なにせ一丁ごとに活字を組んで、印刷が終われば、その活字をばらしてしまうのである。印刷したあと気づいたら「後の祭り」諦めるしかない・・・・と思いますよね?
 しかし、古活字版でも校正の跡がちゃんと追跡できるのである。古活字版悉皆調査をしている高木浩明さんなら、そういう事例をいくつも見付けることができる。『日本古書通信』2023年9月号に載る、「古活字探偵事件帖」の第9回は、「古活字版の校正」である。
 『平家物語』古活字版(下村版)では、巻首の章段名を落としてしまったため、巻首の一丁だけ、活字を組み替えた訂正版が作成されたという。稀な例だが、古活字探偵だから、その事例を発見できるのだ。章段名を入れると1行分ちぢめないといけないが、仮名を漢字に改めるなどの字数調整をするのだそうだ。
 しかし、通常は胡粉を塗って上から活字を捺印するか、墨書して訂正するか、誤植箇所を切り抜いて裏から活字紙片を貼り付けるか、いやはや、1部だけではなく、印刷した本全部にやるのだから、大変である。とはいえ、私も印刷されて手元に届いた論文の誤植に気づいて、抜き刷りのひとつひとつに赤ペンで訂正を入れるという経験が若い頃はある。今は横着になって、「誤植があるようですけど、すみません」などと投げやりな謝罪を付言すればまだよういほうで、見て見ぬ振りをしてしまったりするのである。
 さて、下村本というのは、古活字本の中でもずばぬけて伝本の多い本らしいのだが、訂正箇所が千箇所を超えるらしいが、それを数える高木さんもスゴい。誤植の訂正ではなく、他本を見て「校訂」したと思われる例も示している。他本の有力な候補が延慶本で、それは角倉素庵の工房で・・・、と探偵の推理は続くのである。
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