2023年11月10日

源氏物語を読むための25章

 来年の大河ドラマに合わせて、出版界は源氏ブームである。ただでさえ古典研究界隈は、源氏のひとり勝ちという状況であるので、もはや古典研究の半分は源氏研究なのでは?と妄想してしまうくらいの状況。いやいや、うらやんでいないで、私たちも頑張りましょう。
 もちろん、江戸文学研究も『源氏物語』を無視してできるはずがない。つい最近、私も怪異語りの論文を源氏で締めたくらいで。だから『源氏物語』研究動向にも、無関心ではいられない。とはいえ、學燈社の『國文学』や至文堂の『国文学解釈と鑑賞』が廃刊されて久しい今、源氏物語の研究動向を、わかりやすく編んだ本に出会う機会が少なくなった。
 そんな時に出た河添房江・松本大編の『源氏物語を読むための25章』(武蔵野書院)。その渇を癒やすのにピッタリの本である。河添さんも「はじめに」で、そのことに触れている。
 私なりに見たところ、本書は源氏物語「研究」入門書であり、研究最前線の紹介書である。私にとってはとてもありがたい本である。源氏物語研究にはさまざまな切り口がある。その切り口を、それぞれに実績のある論者が具体的に特定の巻に即して解説してゆく。特定の巻に即してというところに本書の特徴があり、各論は源氏物語の巻順にしたがって配列されているのである。これはなかなか思いつかない構成である。
 まず各論の切り口(研究テーマ)を通覧すると、私が学生のころにはなかったものがいくつもある。たとえば書誌学・唐物・ジェンダーなど。一方で、成立論・作中人物論・主題論などは立項されていない。源氏物語の「原本」や成立過程を復元するよりも、遺された「本文」そのものへ関心が移っているということであろう。
 書誌学的アプローチの佐々木孝浩さんの「書物が教えてくれること」は、これまで本そのものを見てこなかった源氏の本文研究を批判、池田亀鑑の呪縛に研究者たちがいかにとらわれていたかを厳しく問うている。河添房江さんの「唐物から国風文化論へ」は、源氏物語の中の唐物の働きについて梅枝巻を例に、鮮やかに解読。「唐物派の女君」と「非唐物派の女君」との対比など魅力的な視点を提起するばかりか、「国風文化」の実像の再検討へと論を進める。もうひとりの編者松本大さんは、『河海抄』が、両論併記して、読者の好みに任せるという注釈態度をとっていることを指摘する。「よオーこそ、注釈の世界へ」というのは、注釈書の世界へということだったのね。と、とりあえず目についたものについてコメントした。
 付録の、参考文献・データベース・サイト一覧は有益。でも源氏物語となると、とくにサイトについてはかなりの頻度で更新が必要なので、版元のホームページと連携して、ここの部分だけは最新版が見られるようにしたら、読者はもっと嬉しいだろう。
 
 
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2023年11月06日

大阪ことば学(シリーズ大阪本1)

 何年大阪に住んでも、九州から来た私には大阪はアウェーである。すっかり大阪人になっているように見える九州人も知ってはいるが、私はいつまでも、どうみても大阪人っぽく見えないに違いない。
 実際、「大阪」を冠する大学(もう退職したけど)で「江戸時代の文学」とくに大坂出身の上田秋成なんぞを研究しているのだから、「大阪のスペシャリスト」と世間が誤解するのも仕方ないのだが、やっぱり40過ぎて住み始めたのでは、大阪人になるのは無理である。
 とはいえ、ちょっと私なりに思うところがあって、少しずつ大阪に関わる本を(今さらながら)読むことにした。メモがわりにブログに書き散らして行くが、お許しを。とりあえず月に一冊か二冊をメドにしたいと思う。それでトップバッターがこの本、尾上圭介『大阪ことば学』。1999年に単行本が刊行され、2004年に講談社文庫に、さらには岩波現代文庫に収められている。私が持っているのは、ブックオフでずいぶん前に100円で買った講談社文庫。
 いや、これは名著である。大阪生まれの日本語学者が書いた痛快な大阪ことば論だが、もはや大阪人論であり、大阪文化論である。そして、この本を読むと、大阪人のあまりに高度な言語文化に心底感心し、大阪人を尊敬したくなるのである。
 ここでは、例を二つだけあげておこう。まずは、九州人には絶対にできない、絶妙な応答をするお店の人の話。

「黒のカーフの札入れで、マチがなくて、カードが二枚ほどはいってキラキラした金具がなんもついてないやつで、ごく薄くてやわらかあい、手ざわりのええのん、無いやろか」
「惜しいなあ、きのうまであってん」

 いやもうさすがとしかいいようのない応接の流儀である。「あってん」。これ以外に表現しようのない言葉である。これを拾ってくる著者もすごいが、もしかすると、作り話なのかもしれない。だとすれば、もっとすごいかも。

 もうひとつの例は、近鉄あべの駅の切符の自動販売機で、一人の女子学生が三百円を投入して二百何十円かのボタンを押したところ、切符とともに釣り銭が三百数十円出てきた。彼女が首をかしげて立ちすくんでいたところ、すかさず隣りの券売機にならんでいた中年のおじさんが一歩近づいて、ひとこと
 「まあ、姉ちゃん、安う乗んなはれ」

 これにも唸った。この洗練された声のかけ方。この女子学生がどうしたかは書いていないけど、素晴らしい距離感ではないか。

 と、この二つの例を挙げただけで、この本の素晴らしさは言い切ったと私は思う(どこが)。こういう事例を引くこと自体が、この本のすごさなのである。大阪出身の日本語学者は面白いなあ。文化功労者の金水敏さんにも、この言葉感覚が間違いなくあって、いつも感心させられているのだが。

 ところで、シリーズ大阪本などと大上段に出たが、私が三日坊主ということは、このブログの読者はよくご存じであろう。どうなることやら。
 
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