何年大阪に住んでも、九州から来た私には大阪はアウェーである。すっかり大阪人になっているように見える九州人も知ってはいるが、私はいつまでも、どうみても大阪人っぽく見えないに違いない。
実際、「大阪」を冠する大学(もう退職したけど)で「江戸時代の文学」とくに大坂出身の上田秋成なんぞを研究しているのだから、「大阪のスペシャリスト」と世間が誤解するのも仕方ないのだが、やっぱり40過ぎて住み始めたのでは、大阪人になるのは無理である。
とはいえ、ちょっと私なりに思うところがあって、少しずつ大阪に関わる本を(今さらながら)読むことにした。メモがわりにブログに書き散らして行くが、お許しを。とりあえず月に一冊か二冊をメドにしたいと思う。それでトップバッターがこの本、尾上圭介『大阪ことば学』。1999年に単行本が刊行され、2004年に講談社文庫に、さらには岩波現代文庫に収められている。私が持っているのは、ブックオフでずいぶん前に100円で買った講談社文庫。
いや、これは名著である。大阪生まれの日本語学者が書いた痛快な大阪ことば論だが、もはや大阪人論であり、大阪文化論である。そして、この本を読むと、大阪人のあまりに高度な言語文化に心底感心し、大阪人を尊敬したくなるのである。
ここでは、例を二つだけあげておこう。まずは、九州人には絶対にできない、絶妙な応答をするお店の人の話。
「黒のカーフの札入れで、マチがなくて、カードが二枚ほどはいってキラキラした金具がなんもついてないやつで、ごく薄くてやわらかあい、手ざわりのええのん、無いやろか」
「惜しいなあ、きのうまであってん」
いやもうさすがとしかいいようのない応接の流儀である。「あってん」。これ以外に表現しようのない言葉である。これを拾ってくる著者もすごいが、もしかすると、作り話なのかもしれない。だとすれば、もっとすごいかも。
もうひとつの例は、近鉄あべの駅の切符の自動販売機で、一人の女子学生が三百円を投入して二百何十円かのボタンを押したところ、切符とともに釣り銭が三百数十円出てきた。彼女が首をかしげて立ちすくんでいたところ、すかさず隣りの券売機にならんでいた中年のおじさんが一歩近づいて、ひとこと
「まあ、姉ちゃん、安う乗んなはれ」
これにも唸った。この洗練された声のかけ方。この女子学生がどうしたかは書いていないけど、素晴らしい距離感ではないか。
と、この二つの例を挙げただけで、この本の素晴らしさは言い切ったと私は思う(どこが)。こういう事例を引くこと自体が、この本のすごさなのである。大阪出身の日本語学者は面白いなあ。文化功労者の金水敏さんにも、この言葉感覚が間違いなくあって、いつも感心させられているのだが。
ところで、シリーズ大阪本などと大上段に出たが、私が三日坊主ということは、このブログの読者はよくご存じであろう。どうなることやら。