『西鶴解析』(文学通信、2023年12月)。井口洋先生は、この本の三校まで進めていたが、2月に亡くなった。教え子の肥留川嘉子さんの尽力で、遺稿となった本書の刊行が実現した。100頁近い、親交のあった方々の追悼文を付して。
本書の冒頭の『懐硯』「案内しつてむかしの寝所」の一篇についての読みは、2015年に『かがみ』に発表されたものだが、この論文が巻頭に配されたことは私にとって感慨深いものがある。この論文を私は読んで、その読みの面白さを堪能し、ブログに感想を書いた。リンクではなく、あえて再掲してみる。
井口洋先生の「案内しつてむかしの寝所―『懐硯』解析」(『かがみ』45号、大東急記念文庫、2015年3月)は、『伊勢物語』24段を典拠とする『懐硯』巻1の4の作品論である。
この論が異色なのは、論文の過半を『伊勢物語』24段そのものの解釈、それも「あづさ弓まゆみつきゆみ年をへてわがせしがごとうるはしみせよ」の和歌解釈、そのなかの「うるはしみす」の解釈に費やしているということなのである。
そのしつこいくらいの考証は、しかし西鶴も井口先生と同様の『伊勢物語』解釈をしたのか、という当然の疑問をうむ。その一番の隘路を通り抜け、『懐硯』論に戻ってくる展開は、大技といおうか、手練といおうか、ちょっと真似のできない芸当であろう。
かくして導かれるのは、『懐硯』が『伊勢物語』の「こよひこそにゐまくらすれ」の未遂を既遂に翻し、その時の女の心の機微に触れたという読みである。その読みが劇的にたち現れる手続きが、この論文のキモではないか。久しぶりに「読み」の面白さを堪能した論文。
井口先生の周到かつ華麗な論の展開は、いつも私を唸らせた。その論の展開は、一言で言えば、独自であり、「井口読み」であって、外の誰にも真似できない、読みの創出ともいうべきものだ。読みにおいては何事もゆるがせにせず、研究会でも忌憚のない意見をいう先生ではあるが、実際にお会いすると、失礼ながら、なんとも愛嬌のある可愛らしさがある。その落差に魅力を感じた人も少なくあるまい。
文学通信は、先生の『西鶴試論』(和泉書院)の装幀そのままに本書を作った。文学通信らしからぬ装幀だが、これも素晴らしい趣向だったと思う。
2023年12月29日
2023年12月25日
和本図譜
日本近世文学会が70周年記念に出版した『和本図譜ー江戸を究める』(文学通信、2023年10月)。近世文学の、ビジュアルから「面白さ」を存分に伝えることができる1冊になっている。企画構成にかなり時間をかけた跡が窺える。
前回の50年記念誌は展示図録でもあって、予算もかなり使って、いろいろな逸品の図誌だった。今回は、外に開くということを意識し、若手が意欲的に取り組んだところが特徴だろう。
図譜だから、俗文学の表層を見せるのが中心になる。江戸の印刷・製本のすばらしさ、それは江戸の職人の技術の高さを見せることにもつながる。「へー、こんな分厚い本があるのか」とか「すごい印刷技術」とか、「この仕掛け面白い」とか、読者は何度も楽しめる。
そこから、専門的に深掘りするための案内というか、参考文献を、もう少し載せてもよかったかな、というのは個人の感想である。
「研究のバックヤード」は、近世文学研究に、大きな足跡を残した長老・ベテランへのインタビュー。副題の「江戸を究める」は、この先生方の営為のことでもあるだろう。あえて若手→長老・ベテランのインタビュー形式にすることで、「研究の継承」というコンセプトを打ち出しているように見える。ただ、個別差があって、先生方の口吻が伝わってくるものと、受け止めた側(インタビューした人)の思いが伝わってくるものとがある。録音起こしという手を使わなかったのは、校正の時、先生方にお時間をとらせるからだろうが、対話をそのまま載せる方が、読物としては面白かっただろうな、とも思った。
楽しい本なので、本屋で見かけたら是非お手にとっていただきたい。
前回の50年記念誌は展示図録でもあって、予算もかなり使って、いろいろな逸品の図誌だった。今回は、外に開くということを意識し、若手が意欲的に取り組んだところが特徴だろう。
図譜だから、俗文学の表層を見せるのが中心になる。江戸の印刷・製本のすばらしさ、それは江戸の職人の技術の高さを見せることにもつながる。「へー、こんな分厚い本があるのか」とか「すごい印刷技術」とか、「この仕掛け面白い」とか、読者は何度も楽しめる。
そこから、専門的に深掘りするための案内というか、参考文献を、もう少し載せてもよかったかな、というのは個人の感想である。
「研究のバックヤード」は、近世文学研究に、大きな足跡を残した長老・ベテランへのインタビュー。副題の「江戸を究める」は、この先生方の営為のことでもあるだろう。あえて若手→長老・ベテランのインタビュー形式にすることで、「研究の継承」というコンセプトを打ち出しているように見える。ただ、個別差があって、先生方の口吻が伝わってくるものと、受け止めた側(インタビューした人)の思いが伝わってくるものとがある。録音起こしという手を使わなかったのは、校正の時、先生方にお時間をとらせるからだろうが、対話をそのまま載せる方が、読物としては面白かっただろうな、とも思った。
楽しい本なので、本屋で見かけたら是非お手にとっていただきたい。
2023年12月17日
なにわ町人学者伝(シリーズ大阪本3)
シリーズ大阪本第3弾は、谷沢永一編『なにわ町人学者伝』(潮出版社、1983年)である。
大阪という町は、江戸時代からマルチタレントを輩出している。専門的な学者ではなく、遊芸的に学問を楽しむ町人たちが文化壇を作っていた(中村幸彦「宝暦明和の大阪騒壇」『中村幸彦著述集』6)。その伝統は昭和まで続く。
この本は読売新聞本社が企画、谷沢永一が相談を受け、人選を肥田晧三に一任して、読売新聞の筒井之隆が取材調査し連載したものの単行本化である。取り上げられた人物は、富永仲基・入江昌喜・木村蒹葭堂・草間直方・山片蟠桃・橋本宗吉・間長涯・平瀬露香・南木芳太郎・佐古慶三である。
各人について、まず谷沢永一がその学問の意義を、紙礫的文体で見開き2頁に記し、次いで参考文献付記としてその人物についての研究史を掲げ、それに筒井の評伝が続く。最後の佐古慶三だけはこの当時存命であり、長い聞書が特別に付されている。さらには連載時のコラムだった肥田晧三先生の「大阪の名著発掘」があり、この部分は大阪学の基礎文献解題でもある。お役立ち度が高い。
すべての章が面白いが、白眉は最後を飾る佐古慶三である。佐古は「道頓堀を開削したと言われてきた安井道頓という人物は実在しない。開削したのは成安道頓だ」と明らかにしたが、これは安井の子孫が大阪府と大阪市を相手取って起こした「道頓堀訴訟」の際に佐古が意見書を提出したことで大きな話題となった。さすがに国史大辞典には開削者を「成安道頓」としているが、Wikipediaには相変わらず「安井道頓」となっていて、今でもそう思っている人は多いのではないか。
船場の商人の子どもであった佐古は「政治と権力をカサに着る奴が大嫌い」であり、相手がどんなに偉い学者であっても敢然とかみついた。大阪高商を卒業し、東京高商専攻部(現一橋大)に進み、古文書研究をやるため京都帝国大学に入学した。佐古は京大教授の書いた経済史の本を「経済史と社会史を寄せ集め年代別に編んだに過ぎない」と弾劾した。いったん講師を務めていた大阪高商を辞したあと、大阪樟蔭女子大教授になるまで27年間空白があったのは、京大閥で押さえられていた関西各大学から門を閉ざされたからだというのだ。大阪高商をやめたのも校長と教育方針で一悶着起こしたからだった。
さて、特別に付いている「《聞き書き》佐古慶三伝」は無類に面白いので、一、二紹介。
国文学者西鶴注釈が批判されていて、たとえば「織留」に「毎日一文づつ貯金して、百日ごとに一割の利息を加えて、六十歳になったら銀六十貫になりぬ」という文章がある。計算すると十五貫にしかならない。それを六十貫にあわせようと国文学者はやっているが、西鶴は語呂合わせで書いているのにすぎない(これは昭和53年に歴史読本に書いたらしい)。
佐古が見付けた史料で「多分付」という町年寄の選挙方法が面白い。投票用紙に「多分」と書けば、無効にも棄権にもならなくて、一番票数の多い人に付けたという。なかなかユニークな選挙法で、ハーバード大の教授が史料を見に来たという。
佐古と雑誌『上方』を刊行し続けた南木芳太郎は、佐古とともに、一と六のつく日にたつ平野町の夜店で真っ先に和本を物色しに行った。この二人がよるのを待って、当時の和本屋の雄である鹿田松雲堂が「もうよろしいか」と言って抜きはじめる。なんとも壮絶な風景である。
谷沢永一が信頼を置く肥田晧三先生も、典型的な「なにわ町人学者」だろう。先生とは少しだけだが、謦咳に接することができたのは幸運だった。府立中之島図書館で嘱託として働いていたところを、谷沢永一が関大に招へいし、やがて教授になった話は有名である。肥田先生の本が読みたくなってきた。
大阪という町は、江戸時代からマルチタレントを輩出している。専門的な学者ではなく、遊芸的に学問を楽しむ町人たちが文化壇を作っていた(中村幸彦「宝暦明和の大阪騒壇」『中村幸彦著述集』6)。その伝統は昭和まで続く。
この本は読売新聞本社が企画、谷沢永一が相談を受け、人選を肥田晧三に一任して、読売新聞の筒井之隆が取材調査し連載したものの単行本化である。取り上げられた人物は、富永仲基・入江昌喜・木村蒹葭堂・草間直方・山片蟠桃・橋本宗吉・間長涯・平瀬露香・南木芳太郎・佐古慶三である。
各人について、まず谷沢永一がその学問の意義を、紙礫的文体で見開き2頁に記し、次いで参考文献付記としてその人物についての研究史を掲げ、それに筒井の評伝が続く。最後の佐古慶三だけはこの当時存命であり、長い聞書が特別に付されている。さらには連載時のコラムだった肥田晧三先生の「大阪の名著発掘」があり、この部分は大阪学の基礎文献解題でもある。お役立ち度が高い。
すべての章が面白いが、白眉は最後を飾る佐古慶三である。佐古は「道頓堀を開削したと言われてきた安井道頓という人物は実在しない。開削したのは成安道頓だ」と明らかにしたが、これは安井の子孫が大阪府と大阪市を相手取って起こした「道頓堀訴訟」の際に佐古が意見書を提出したことで大きな話題となった。さすがに国史大辞典には開削者を「成安道頓」としているが、Wikipediaには相変わらず「安井道頓」となっていて、今でもそう思っている人は多いのではないか。
船場の商人の子どもであった佐古は「政治と権力をカサに着る奴が大嫌い」であり、相手がどんなに偉い学者であっても敢然とかみついた。大阪高商を卒業し、東京高商専攻部(現一橋大)に進み、古文書研究をやるため京都帝国大学に入学した。佐古は京大教授の書いた経済史の本を「経済史と社会史を寄せ集め年代別に編んだに過ぎない」と弾劾した。いったん講師を務めていた大阪高商を辞したあと、大阪樟蔭女子大教授になるまで27年間空白があったのは、京大閥で押さえられていた関西各大学から門を閉ざされたからだというのだ。大阪高商をやめたのも校長と教育方針で一悶着起こしたからだった。
さて、特別に付いている「《聞き書き》佐古慶三伝」は無類に面白いので、一、二紹介。
国文学者西鶴注釈が批判されていて、たとえば「織留」に「毎日一文づつ貯金して、百日ごとに一割の利息を加えて、六十歳になったら銀六十貫になりぬ」という文章がある。計算すると十五貫にしかならない。それを六十貫にあわせようと国文学者はやっているが、西鶴は語呂合わせで書いているのにすぎない(これは昭和53年に歴史読本に書いたらしい)。
佐古が見付けた史料で「多分付」という町年寄の選挙方法が面白い。投票用紙に「多分」と書けば、無効にも棄権にもならなくて、一番票数の多い人に付けたという。なかなかユニークな選挙法で、ハーバード大の教授が史料を見に来たという。
佐古と雑誌『上方』を刊行し続けた南木芳太郎は、佐古とともに、一と六のつく日にたつ平野町の夜店で真っ先に和本を物色しに行った。この二人がよるのを待って、当時の和本屋の雄である鹿田松雲堂が「もうよろしいか」と言って抜きはじめる。なんとも壮絶な風景である。
谷沢永一が信頼を置く肥田晧三先生も、典型的な「なにわ町人学者」だろう。先生とは少しだけだが、謦咳に接することができたのは幸運だった。府立中之島図書館で嘱託として働いていたところを、谷沢永一が関大に招へいし、やがて教授になった話は有名である。肥田先生の本が読みたくなってきた。
2023年12月13日
江戸川乱歩とリチャード・レイン
非常に興味深い目録がある。丹羽みさとさん編の「江戸川乱歩「和本カード」目録」(「大衆文化」29号、2023年9月)である。古典籍を中心とした自筆の蔵書書誌カード集。である。丹羽さんは、真山青果プロジェクトでお世話になった方。また私が「奇談」書研究の一環で立教大学図書館の乱歩文庫の閲覧を申し入れた際にも、大変お世話になった。その時のことがあって、お送りくださったのであろう。
乱歩が手に入れた時期や入手経路、価格なども記されている。江戸川乱歩の旧蔵書の大半は立教大学に収められているが、「和本カード」は立教に入る時点で散佚していた資料のデータも含まれている。カード総数は1184枚で、西鶴、仮名草子以前、仮名草子、浮世草子、八文字屋、読本滑稽本洒落本噺本赤本黒本黄表紙、怪談、地誌、絵本絵巻物、和印、雑誌、唐本、詩歌俳、非小説、裁判物、小噺、評判記、手妻謎、合巻と分類されている。「怪談」「和印」「裁判物」などの分類が乱歩らしい。
合巻も328点あり、合巻コレクションとしては、有数なものだったはずである。ただ、これh現在乱歩文庫にはないようだ。
そして私が最も注目したのは、リチャード・レインとの書物交流である。レインの旧蔵書は現在ほとんどがホノルル美術館に収められていて、私もその目録作成チームの一員として何度も訪れている。
乱歩の旧蔵書の中には、レインから寄贈されたり、レインと交換したりしたものが少なからずある。その一覧をここでメモしておこう。ここはブログに過ぎないので、きちんと何度も見直しているわけではない。遺漏があればお許しいただきたい。リスト番号、書名、レインとの関係の順で抜き出していく。
西鶴3 花鳥風月・好色堪忍記。好色堪忍記2−4三冊はレイン、パリにて求めたるもの、日本になし。この三冊を吉原伊セ物語と竹斎下と交換せり。
西鶴11 西鶴跡追(当流たか身の上) 31/1レイン交換。
仮名前4 秋の夜の長物語 32/12 リチャード・レイン交換本
仮名前 大仏物語 31/3 レイン交換本
仮名12 杉楊子 31/3、レイン交換本
浮世11 金玉ねちふくさ 31/3、レイン交換本
浮世19 五ヶ乃津余情男 28/1/10 四巻レーン君より寄贈
浮世33 新武道伝来記〔端本〕 題簽殆ど摩損。後日レインより六巻入手。
浮世37 千尋日本織 レイン交換本、五巻31、3月 追加寄贈さる。
浮世40 31/3 長者機嫌袋
浮世46 男色子鑑 31/2 レイン君取換本。
朝倉12 好色はつゆめ 28/1/10(朝倉とは朝倉『日本小説年表』にないもの=飯倉注)
朝倉24 諸国勇力染 31/3レイン交換本
朝倉28 世間孝子形気 31/3レイン交換本
朝倉48 和国小性形気 32/12 リチャード・レインより巻一入手、揃本となる
読滑酒等23 男色狐敵討 31/3 レインと交換
地誌9 江戸雀 レインに課す。31,3,8代り本入手せばそれと交換の約
絵本7 絵本隅田川両岸一覧 32/12 リチャード・レイン交換本
絵本35 東都勝景一覧 32/12、リチャード・レイン交換本
昭和31年、32年あたりには定期的に蔵書情報を共有して、交換したりしていたことが如実にわかる。面白い。何と交換したのかは好色堪忍記しかわからないが・・・。
乱歩が手に入れた時期や入手経路、価格なども記されている。江戸川乱歩の旧蔵書の大半は立教大学に収められているが、「和本カード」は立教に入る時点で散佚していた資料のデータも含まれている。カード総数は1184枚で、西鶴、仮名草子以前、仮名草子、浮世草子、八文字屋、読本滑稽本洒落本噺本赤本黒本黄表紙、怪談、地誌、絵本絵巻物、和印、雑誌、唐本、詩歌俳、非小説、裁判物、小噺、評判記、手妻謎、合巻と分類されている。「怪談」「和印」「裁判物」などの分類が乱歩らしい。
合巻も328点あり、合巻コレクションとしては、有数なものだったはずである。ただ、これh現在乱歩文庫にはないようだ。
そして私が最も注目したのは、リチャード・レインとの書物交流である。レインの旧蔵書は現在ほとんどがホノルル美術館に収められていて、私もその目録作成チームの一員として何度も訪れている。
乱歩の旧蔵書の中には、レインから寄贈されたり、レインと交換したりしたものが少なからずある。その一覧をここでメモしておこう。ここはブログに過ぎないので、きちんと何度も見直しているわけではない。遺漏があればお許しいただきたい。リスト番号、書名、レインとの関係の順で抜き出していく。
西鶴3 花鳥風月・好色堪忍記。好色堪忍記2−4三冊はレイン、パリにて求めたるもの、日本になし。この三冊を吉原伊セ物語と竹斎下と交換せり。
西鶴11 西鶴跡追(当流たか身の上) 31/1レイン交換。
仮名前4 秋の夜の長物語 32/12 リチャード・レイン交換本
仮名前 大仏物語 31/3 レイン交換本
仮名12 杉楊子 31/3、レイン交換本
浮世11 金玉ねちふくさ 31/3、レイン交換本
浮世19 五ヶ乃津余情男 28/1/10 四巻レーン君より寄贈
浮世33 新武道伝来記〔端本〕 題簽殆ど摩損。後日レインより六巻入手。
浮世37 千尋日本織 レイン交換本、五巻31、3月 追加寄贈さる。
浮世40 31/3 長者機嫌袋
浮世46 男色子鑑 31/2 レイン君取換本。
朝倉12 好色はつゆめ 28/1/10(朝倉とは朝倉『日本小説年表』にないもの=飯倉注)
朝倉24 諸国勇力染 31/3レイン交換本
朝倉28 世間孝子形気 31/3レイン交換本
朝倉48 和国小性形気 32/12 リチャード・レインより巻一入手、揃本となる
読滑酒等23 男色狐敵討 31/3 レインと交換
地誌9 江戸雀 レインに課す。31,3,8代り本入手せばそれと交換の約
絵本7 絵本隅田川両岸一覧 32/12 リチャード・レイン交換本
絵本35 東都勝景一覧 32/12、リチャード・レイン交換本
昭和31年、32年あたりには定期的に蔵書情報を共有して、交換したりしていたことが如実にわかる。面白い。何と交換したのかは好色堪忍記しかわからないが・・・。
2023年12月02日
武士の町 大坂(シリーズ大阪本2)
藪田貫『武士の町 大坂』。初出は2010年10月の中公新書。その後、講談社学術文庫。〈町人の町〉というイメージが強固な江戸時代の大坂だが、藪田氏に言わせると、そんなことはない、大坂だって「武士の町」と言えるのだという。
私が関心のある大坂の武士といえば、上田秋成の国学の師、加藤宇万伎。幕臣で大番与力。大阪城や二条城に勤番した人物である。そしてこの本にも出てくる増山雪斎。伊勢長島藩藩主で大坂城加番。木村蒹葭堂と仲が良く、書画の技倆がすごい大名。そして、約1年ではあるが大坂銅座詰であった蜀山人大田南畝。
秋成を中心に上方文壇の人的交流が私の研究テーマのひとつであるが、宇万伎や雪斎や南畝という人物を考える時には、「武士の町 大坂」という視点は絶対に必要である。改めて、この本の有益さを実感したので、自身のメモとして書き留めておく。
つかみは、司馬遼太郎の「大坂の武士は二百人」への反証。武鑑をはじめとする武士名鑑を用いて計算すれば、低めに見積もっても八千人は確実という。司馬遼太郎だけではなく著名な歴史研究者の「千人から千五百人」という説も斬ったことになる。
それでも武士の割合は2%くらい。数から言えば圧倒的に「町人の町」であることは動かない。だが藪田氏は量だけではなく質を考えるべきだという。
大坂の武士の情報である『大坂袖鑑』さらに両面一枚刷の画期的な『浪華御役録』。これらが大坂の町人にどれだけ貴重な情報を提供していたか、よく引用される「お奉行の名さへ覚えず年くれぬ」は、実は町人の実態を示した川柳ではなく、「自らを俗事にかかわらぬ市隠に擬した」(飯田正一)の解が正しいという。実際は、この武士情報は実に重宝されていた。摂津河内和泉播磨まで枠を拡げた『大坂便用録』というものもあり、それぞれ利用目的の違う3種の武鑑を、武士相手に取引をする町人は必要に応じて使っていたらしいのである。とくに人事情報を得るために。本書の大きなヤマは、この武鑑の詳細な分析である。
西町奉行新見正路の日記と西町奉行所図から彼らの生活が浮き彫りにされる。注目すべきは、懐徳堂預の中井七郎(碩果)を招いて夜講をした。月三回『貞観政要』や『論語』の講義が行われたということだ。懐徳堂といえば「町人が作った学校」というイメージだが、すぐに官許化されるわけだし、中井竹山は家康の一代記である『逸史』を著して幕府に献上しているから、幕府との関係をもっと追究すべきなのだろう。ちなみに新見は和歌では冷泉家に入門しているというのも面白い。和歌研究者には大坂武士の冷泉派って盲点ではないか(すでに押さえておられたらゴメンナサイ)。また懐徳堂最後の教授並河寒泉も代官竹垣直道に招かれて講義をしている。寒泉の日記によれば、九人の幕臣に出張講義をしているらしい。
加番の増山雪斎が蒹葭堂を何度も訪れていることにも触れている。蒹葭堂もまた増山を何度も訪問している。こうしてみると大坂の幕臣は文事が大好きなわけで、大坂といえば町人文化圏ばかりを追っかけてきた感なしとしない文壇研究もよく考えないといけないですね(自身へ言い聞かせています)。
ところで大坂の祭りを描いた絵図に侍が描かれておらず、それが「大坂に侍は少ない」のイメージを増幅していたのだが、それは城内の武士は「札留」され禁足令が出ていたからだという謎解きも鮮やかである。
他にも面白い話が満載なのだが、これくらいにしておいて、最後に中村幸彦の「天下の町人考」を挙げ、「天下の町人」を「大阪だけが封建支配の真空地帯」と解した宮本又次に対して、中村はこれを「幕府直轄地の町人」と解し、大阪町人はそれを誇ったと解していた。中村の説に信頼をおくなら、大阪=町人の都という言説は、近代に入って造られたのではないかと締めている。
この件に関して、私は思いつきではあるが、それを補う一案を持っている。大坂のイメージを造った本のひとつとして『摂津名所図会』があると思うが、『摂津名所図会』には幕府=武士の面影が除去されているように思う。大阪城も掲載されていないし、含翠堂は掲載されているのに懐徳堂はない。官許化されているからではないか。まあ名所図会は全体として朝廷中心につくられてはるのだが、こと『摂津名所図会』それも大坂之部について言えば、その挿絵を通覧すると「町人の都」とだなあと誰もがイメージを刷り込まれるのではないだろうか?
このことも考えてはみたいのだが、その前にやることがたくさんあるので、できるかどうかは怪しい。
私が関心のある大坂の武士といえば、上田秋成の国学の師、加藤宇万伎。幕臣で大番与力。大阪城や二条城に勤番した人物である。そしてこの本にも出てくる増山雪斎。伊勢長島藩藩主で大坂城加番。木村蒹葭堂と仲が良く、書画の技倆がすごい大名。そして、約1年ではあるが大坂銅座詰であった蜀山人大田南畝。
秋成を中心に上方文壇の人的交流が私の研究テーマのひとつであるが、宇万伎や雪斎や南畝という人物を考える時には、「武士の町 大坂」という視点は絶対に必要である。改めて、この本の有益さを実感したので、自身のメモとして書き留めておく。
つかみは、司馬遼太郎の「大坂の武士は二百人」への反証。武鑑をはじめとする武士名鑑を用いて計算すれば、低めに見積もっても八千人は確実という。司馬遼太郎だけではなく著名な歴史研究者の「千人から千五百人」という説も斬ったことになる。
それでも武士の割合は2%くらい。数から言えば圧倒的に「町人の町」であることは動かない。だが藪田氏は量だけではなく質を考えるべきだという。
大坂の武士の情報である『大坂袖鑑』さらに両面一枚刷の画期的な『浪華御役録』。これらが大坂の町人にどれだけ貴重な情報を提供していたか、よく引用される「お奉行の名さへ覚えず年くれぬ」は、実は町人の実態を示した川柳ではなく、「自らを俗事にかかわらぬ市隠に擬した」(飯田正一)の解が正しいという。実際は、この武士情報は実に重宝されていた。摂津河内和泉播磨まで枠を拡げた『大坂便用録』というものもあり、それぞれ利用目的の違う3種の武鑑を、武士相手に取引をする町人は必要に応じて使っていたらしいのである。とくに人事情報を得るために。本書の大きなヤマは、この武鑑の詳細な分析である。
西町奉行新見正路の日記と西町奉行所図から彼らの生活が浮き彫りにされる。注目すべきは、懐徳堂預の中井七郎(碩果)を招いて夜講をした。月三回『貞観政要』や『論語』の講義が行われたということだ。懐徳堂といえば「町人が作った学校」というイメージだが、すぐに官許化されるわけだし、中井竹山は家康の一代記である『逸史』を著して幕府に献上しているから、幕府との関係をもっと追究すべきなのだろう。ちなみに新見は和歌では冷泉家に入門しているというのも面白い。和歌研究者には大坂武士の冷泉派って盲点ではないか(すでに押さえておられたらゴメンナサイ)。また懐徳堂最後の教授並河寒泉も代官竹垣直道に招かれて講義をしている。寒泉の日記によれば、九人の幕臣に出張講義をしているらしい。
加番の増山雪斎が蒹葭堂を何度も訪れていることにも触れている。蒹葭堂もまた増山を何度も訪問している。こうしてみると大坂の幕臣は文事が大好きなわけで、大坂といえば町人文化圏ばかりを追っかけてきた感なしとしない文壇研究もよく考えないといけないですね(自身へ言い聞かせています)。
ところで大坂の祭りを描いた絵図に侍が描かれておらず、それが「大坂に侍は少ない」のイメージを増幅していたのだが、それは城内の武士は「札留」され禁足令が出ていたからだという謎解きも鮮やかである。
他にも面白い話が満載なのだが、これくらいにしておいて、最後に中村幸彦の「天下の町人考」を挙げ、「天下の町人」を「大阪だけが封建支配の真空地帯」と解した宮本又次に対して、中村はこれを「幕府直轄地の町人」と解し、大阪町人はそれを誇ったと解していた。中村の説に信頼をおくなら、大阪=町人の都という言説は、近代に入って造られたのではないかと締めている。
この件に関して、私は思いつきではあるが、それを補う一案を持っている。大坂のイメージを造った本のひとつとして『摂津名所図会』があると思うが、『摂津名所図会』には幕府=武士の面影が除去されているように思う。大阪城も掲載されていないし、含翠堂は掲載されているのに懐徳堂はない。官許化されているからではないか。まあ名所図会は全体として朝廷中心につくられてはるのだが、こと『摂津名所図会』それも大坂之部について言えば、その挿絵を通覧すると「町人の都」とだなあと誰もがイメージを刷り込まれるのではないだろうか?
このことも考えてはみたいのだが、その前にやることがたくさんあるので、できるかどうかは怪しい。