盛田帝子/ロバート・ヒューイ編、盛田帝子・松本大・飯倉洋一校注訳『江戸の王朝文化復興ーホノルル美術館所蔵レイン文庫『十番虫合絵巻』を読む』、英語版は The Heian Culture Revival inEdo:Reading the Jūban-Mushi-awase sxrolls in the Honolulu Museum of Art's Lane Collectionが、2024年3月31日、文学通信から刊行されました。
本書に関わった一人としては、みんなで力を合わせて出来た本だけに、本当に嬉しいですね。ハワイのホノルル美術館に収められている『十番虫合絵巻』は、実に見事に保管されてきた、天明期の歌合・物合の雅びを、紙上再現し、現代人にも読めるように、校訂本文・現代語訳・注釈・英訳・英語注を施したものであります。
147頁までは図版カラー。日本語版263頁、英文版116頁に執筆者紹介を加えて、合わせて380頁超え。この種の本としては、超廉価の本体価格2800円です。構成は以下の通り。
【目次】
まえがき[盛田帝子]英訳あり
はじめに(英語版)[ロバート・ヒューイ]和訳あり
T 本文と解説
影 印
各種凡例
校訂本文・現代語訳・注釈
一番 二番 三番 四番 五番
六番 七番 八番 九番 十番 跋
注釈図版出典一覧
解題──古典知の凝縮された『十番虫合絵巻』の魅力[盛田帝子]
ホノルル美術館所蔵リチャード・レイン・コレクション[南 清恵]
U 論考・コラム
美術史研究から見た『十番虫合絵巻』の作り物[門脇むつみ](英訳あり)
物合と歌合[加藤弓枝](英訳あり)
知識人たちの遊びと考証──十八世紀末から十九世紀初頭の江戸に注目して[有澤知世](英訳あり)
『十番虫合』と『源氏物語』[瓦井裕子](英訳あり)
『十番虫合絵巻』と漢文脈──草虫詩から花鳥画まで[山本嘉孝](英訳あり)
近世期の『源氏物語』本文と橘千蔭[松本 大](英訳あり)
ノスタルジアの歌学──国学と「十番虫合」[ターニャ・バーネット]
長柄橋[ロバート・ヒューイ]
物たちの歌[フランチェスカ・ピザーロ]
数々の虫(Cricket)の〈声〉[ヒルソン・リードパス]
「死の川」の辺りで── 二十世紀日本における木母寺の面影について[ジョナサン・ズウィッカー]
『十番虫合絵巻』の英訳によって失われたもの・そして発見されたものについて[アンドレ・ヘーグ]
『十番虫合絵巻』がハワイの教育にもたらしたもの[南 清恵]
V 付録
人物解題[十番虫合絵巻研究会編]
『十番虫合絵巻』翻刻と校異[翻刻 松本 大・校異 盛田帝子]
類題和歌集との表現の類似[松本 大]
英語版
Introduction / Robert Huey
Introduction / Morita Teiko
T The Main Text, Background, and Commentary
Jūban Mushi-awase
(A Match of Crickets in Ten Rounds of Verse and Image)
Round 1 Round 2 Round 3 Round 4 Round 5
Round 6 Round 7 Round 8 Round 9 Round 10 Postscript:
Jūban Mushi-awase List of Participants by Round
The Appeal of the Jūban Mushi-awase, a Condensed Version of Classical Knowledge / Morita Teiko
The Richard Lane Collection at the Honolulu Museum of Art / Minami Kiyoe
U Research Articles, Perspectives
A Study of Tsukurimono in the Jūban Mushi-awase Emaki from the Standpoint of Art History Research / Kadowaki Mutsumi
Mono-awase and Uta-awase / Katō Yumie
Intellectuals' Pleasures and Considerations: Focusing on Edo at the End of the 18th Century and the Beginning of the 19th Century / Arisawa Tomoyo
Jūban Mushi-awase and The Tale of Genji / Kawarai Yuko
Sinitic Elements in the Jūban Mushi-awase: From Insect Poetry to Bird-and-Flower Painting / Yamamoto Yoshitaka
The Relationship between the Text of The Tale of Genji and Chikage Tachibana in the Early Modern Period / Matsumoto Ōki
The Poetics of Nostalgia: Kokugaku and the Jūban Mushi-awase / Tanya Barnett
The Nagara Bridge / Robert Huey
The Poetry of Things / Francesca Pizarro
The Many 'Voices' of Crickets / Hilson Reidpath
Along the "River of Death": On the Afterimage of the Mokubo-ji in Twentieth-Century Japan / Jonathan Zwicker
Lost and Found in Translation of the Jūban Mushi-awase Scrolls / Andre Haag
What Jūban Mushi-awase Emaki has Brought to Education in Hawaiʻi / Minami Kiyoe
コロナ禍の中で、ホノルル・バークレー・日本を繋ぎ、Zoomで行われた十番虫合絵巻研究会の成果です。ハワイ大のヒューイ先生と学生達と議論することで、私達が日頃考えも付かないアプローチや発想を知ることが出来て本当にありがたかったです。
ちなみに英語版の注や人物解題は、日本語版の訳ではなく英文版独自です(日本語版を参照はしていますが)。
ハワイ大チームの結束力は間を瞠りました。ヒューイ先生以外は、和歌や近世文学の専門家はいませんが、毎回研究会に出席して、英訳を検討した熱意には頭が下がります。研究会で、こーでもない、あーでもないと英訳を検討する様子は、実に粘り強く真摯で感銘を受けたものです。
そして、十番虫合絵巻研究会の成果は、WEBでも公開されました。永崎研宣先生のご指導の下、加藤弓枝さん、藤原静香さんの献身的なご尽力で、すばらしいWEBサイトが出来ました。ぜひご覧ください。 http://juban-mushi-awase.dhii.jp
TEI準拠ファイルに対応した新しい古典籍ビューワで、現代語訳・英訳と対比して閲覧できます。このサイト、とくにビューワの使い方については永崎先生のブログをご参照下さい。サイトから使い方動画(これは開発中の画面を使ってつくったものなので、実際の画面と少し違うところがあります)にもリンクされています。こちらのサイトも日本語版と英語版があります。
さらに、『十番虫合絵巻』は、みやびをテーマとしたホノルル美術館で、展覧されます。4月18日から7月28日まで。どうぞ、ホノルルにいらっしゃる予定の方は、是非覗いてみて下さい!
2024年03月31日
古典の再生
盛田帝子編『古典の再生』(文学通信、2024年3月)が、本日付で刊行されました。
この論集は、2023年2月に、京都産業大学むすびわざ館を会場に、2日間にわたっておこなわれた、国際シンポジウム「古典の再生」におけるパネリストは発表とディスカサントの議論を元に成ったものです。ハイブリッドで行われたシンポジウムには、460名以上の人が参加登録をしました。私も、シンポジウムの運営と書籍の編集に多少関わりました。
執筆者は、
第一部「再生する古典」…エドアルド・ジェルリーニ/盛田帝子/ロバート・ヒューイ/アンダソヴァ・マラル/荒木 浩
第二部「イメージとパフォーマンス」…楊 暁捷/佐々木孝浩/ジョナサン・ズウィッカー/佐藤 悟/山田和人
第三部「源氏物語再生史」…田渕句美子/松本 大/兵藤裕己/中嶋 隆
第四部「江戸文学のなかの古典」…山本嘉孝/ユディット・アロカイ/飯倉洋一/合山林太郎/有澤知世
第五部「WEBでの古典再生」…永崎研宣/幾浦裕之/藤原静香/加藤弓枝
という豪華メンバーです。このうち楊暁捷さんはシンポ開催時にはご逝去されていましたが、遺された動画を「再生」し、書籍ではこれを書き起こしました。楊さんに書籍版を見せてあげられないのは残念ですが、ご家族のもとに届けられることになっています。楊論文の書き起こしと図版配置は松本大さんと飯倉が担当しました。これだけのメンバーの力作論文が並ぶのは壮観であり、かつ本書は447頁で本体価格2800円です。かなりお買い得感あると思います。大学の書籍部などでは3000円以下で買える本です。
さて、シンポジウムと各論文から見えてきたのは、「古典の再生」とは古典の復元や再現というところが大事なのではなく、未来につなぐ営為という、いわば古典のもつ可能性であり、論者はそこに光を当てたいうことでした。
実はシンポジウムの翌日、登壇者14名が集まって、「古典の再生」について、みっちり2時間の議論をしました。かなり熱のこもった激しい意見の応酬となりましたが、これも論集には反映していると思います。どうぞ手に取って御覧下さい。
この論集は、2023年2月に、京都産業大学むすびわざ館を会場に、2日間にわたっておこなわれた、国際シンポジウム「古典の再生」におけるパネリストは発表とディスカサントの議論を元に成ったものです。ハイブリッドで行われたシンポジウムには、460名以上の人が参加登録をしました。私も、シンポジウムの運営と書籍の編集に多少関わりました。
執筆者は、
第一部「再生する古典」…エドアルド・ジェルリーニ/盛田帝子/ロバート・ヒューイ/アンダソヴァ・マラル/荒木 浩
第二部「イメージとパフォーマンス」…楊 暁捷/佐々木孝浩/ジョナサン・ズウィッカー/佐藤 悟/山田和人
第三部「源氏物語再生史」…田渕句美子/松本 大/兵藤裕己/中嶋 隆
第四部「江戸文学のなかの古典」…山本嘉孝/ユディット・アロカイ/飯倉洋一/合山林太郎/有澤知世
第五部「WEBでの古典再生」…永崎研宣/幾浦裕之/藤原静香/加藤弓枝
という豪華メンバーです。このうち楊暁捷さんはシンポ開催時にはご逝去されていましたが、遺された動画を「再生」し、書籍ではこれを書き起こしました。楊さんに書籍版を見せてあげられないのは残念ですが、ご家族のもとに届けられることになっています。楊論文の書き起こしと図版配置は松本大さんと飯倉が担当しました。これだけのメンバーの力作論文が並ぶのは壮観であり、かつ本書は447頁で本体価格2800円です。かなりお買い得感あると思います。大学の書籍部などでは3000円以下で買える本です。
さて、シンポジウムと各論文から見えてきたのは、「古典の再生」とは古典の復元や再現というところが大事なのではなく、未来につなぐ営為という、いわば古典のもつ可能性であり、論者はそこに光を当てたいうことでした。
実はシンポジウムの翌日、登壇者14名が集まって、「古典の再生」について、みっちり2時間の議論をしました。かなり熱のこもった激しい意見の応酬となりましたが、これも論集には反映していると思います。どうぞ手に取って御覧下さい。
2024年03月28日
若冲画賛
門脇むつみ・芳澤勝弘編『若冲画賛』(朝日新聞出版、2024年3月)。
本の作り方が、ホノルル美術館所蔵レイン文庫『十番虫合絵巻』に校注現代語訳を施した『江戸の王朝文化復興』(私は校注訳を共同担当)と通じるものがあり、非常に共感を持って、頁をめくった。画賛の賛は、展覧会のキャプションでも無視されることが多い。美術史ではあまり重視されていないものだろうか。一方文学研究者も、絵巻や一枚摺には関心があっても、画賛にはなかなか手が出ないのが現状かもしれない・しかし、とくに江戸時代の文藝の性質を考えれば、画賛は、もっとも江戸時代的な芸術(文学)のあり方のひとつだろう。
秋成にも画賛が少なくない。本書に収められている海老図もそうだが、画賛に焦点をあてた研究書が出て、現代語訳・注釈をも備えている形になっていることは、まことに慶びにたえない。「はじめに」を深く頷きながら拝読した次第でである。
本書はながきにわたる研究会の成果だという。全体としては禅僧の賛が圧倒的に多いのは、むべなるかな。芳澤氏が禅学の専門家なので、解説が勉強になる。
本の作り方が、ホノルル美術館所蔵レイン文庫『十番虫合絵巻』に校注現代語訳を施した『江戸の王朝文化復興』(私は校注訳を共同担当)と通じるものがあり、非常に共感を持って、頁をめくった。画賛の賛は、展覧会のキャプションでも無視されることが多い。美術史ではあまり重視されていないものだろうか。一方文学研究者も、絵巻や一枚摺には関心があっても、画賛にはなかなか手が出ないのが現状かもしれない・しかし、とくに江戸時代の文藝の性質を考えれば、画賛は、もっとも江戸時代的な芸術(文学)のあり方のひとつだろう。
秋成にも画賛が少なくない。本書に収められている海老図もそうだが、画賛に焦点をあてた研究書が出て、現代語訳・注釈をも備えている形になっていることは、まことに慶びにたえない。「はじめに」を深く頷きながら拝読した次第でである。
本書はながきにわたる研究会の成果だという。全体としては禅僧の賛が圧倒的に多いのは、むべなるかな。芳澤氏が禅学の専門家なので、解説が勉強になる。
2024年03月25日
上野洋三著作集
『上野洋三著作集』第一巻として『芭蕉発句評唱』が和泉書院から刊行された(2024年2月)。しっかりとした造本と水色を基調としたさわやかな箱のデザインで、全三巻が予定されている。「芭蕉発句評唱」と副題され、多くは「〇〇考」と題された発句評釈シリーズの論文群が中心で構成されている。上野先生が40代のころに次々と発表され、一回りほど下の駆け出しだった私は、むさぼるようにこれを読んだ。しかし、到底これは真似できないとも思った。
鮮やかで、緻密で、説得力に満ちた論述に魅了された。これらのシリーズは『芭蕉論』(筑摩書房)としてまとめられ、岩波現代文庫には『芭蕉の表現』と題して収められた。
私の見るところ、上野先生は完璧主義者であり、その論文に瑕疵を見付けるのは容易の業ではなかった。そして他者の論文や発表にも実に厳しかった。九大の先輩である井上敏幸先生と仲がよかったので、大阪女子大学在職時代には、夏休みに九州に調査に来られることがあり、私もお二人に同行させていただくことがあり、それで少しずつチャーミングな人間上野洋三に触れることになった。酔うとお茶目なところがあることも知った。今思えば贅沢な時間である。
「ことば」に徹底的にこだわり、考え抜くスタイルは、まさに厳密な学風というにふさわしい。私の尊敬する学者の一人である。
上野先生の業績は芭蕉だけではなかった。和歌史研究にもにも大きな足跡を残した。それは恐らく第三巻に集められるだろう。1日10首の翻刻をルーティーンにされていた。
上野先生、雲英末雄先生、桜井武次郎先生、少し上の世代に白石悌三先生・・・と、芭蕉周辺の俳諧研究が華やかな時代だった。しかし、田中道雄先生を先頭に、今も俳諧研究者らは大きな志を持って前進していると思う。上野先生らの築いた堅固な礎石の上に、また新たな時代にほさわしい華麗な城を築いてほしい。
鮮やかで、緻密で、説得力に満ちた論述に魅了された。これらのシリーズは『芭蕉論』(筑摩書房)としてまとめられ、岩波現代文庫には『芭蕉の表現』と題して収められた。
私の見るところ、上野先生は完璧主義者であり、その論文に瑕疵を見付けるのは容易の業ではなかった。そして他者の論文や発表にも実に厳しかった。九大の先輩である井上敏幸先生と仲がよかったので、大阪女子大学在職時代には、夏休みに九州に調査に来られることがあり、私もお二人に同行させていただくことがあり、それで少しずつチャーミングな人間上野洋三に触れることになった。酔うとお茶目なところがあることも知った。今思えば贅沢な時間である。
「ことば」に徹底的にこだわり、考え抜くスタイルは、まさに厳密な学風というにふさわしい。私の尊敬する学者の一人である。
上野先生の業績は芭蕉だけではなかった。和歌史研究にもにも大きな足跡を残した。それは恐らく第三巻に集められるだろう。1日10首の翻刻をルーティーンにされていた。
上野先生、雲英末雄先生、桜井武次郎先生、少し上の世代に白石悌三先生・・・と、芭蕉周辺の俳諧研究が華やかな時代だった。しかし、田中道雄先生を先頭に、今も俳諧研究者らは大きな志を持って前進していると思う。上野先生らの築いた堅固な礎石の上に、また新たな時代にほさわしい華麗な城を築いてほしい。
2024年03月24日
研究会三景
春休みは、研究会やシンポジウムが花盛りで、あれも出たい、これも覗きたいと思うのだが、いろいろな借金(稿債)取りに追われているのも、大体この時期というので、なかなか悩ましい。3月15日のDH国際シンポについては、自分も登壇したため、その日の夜に報告したわけであるが、私の科研で主催した、2月17日の国際研究集会「教育ツールとしてのデジタル文学地図」、3月3日に行われた、私も共同研究メンバーである科研ワークショップ「18-19世紀京都文芸生成の現場一みやこに吹く新しい風」、そして3月23日に行われた、京都近世小説研究会特別例会「井口洋の学問と研究」。いずれも大いに刺激を受け、いずれも研究会のあとの懇親会で、楽しい交流が出来た。一連の流れは、コロナ前を思い出す。そして、「やはり対面はオンラインの何倍、何十倍もの収穫が質量ともにあるなあ、と実感した。
2月17日の国際研究集会では6名が登壇し、我々が開発している「デジタル文学地図」を利用した授業の報告をした。こういう使い方もあるのか、というユニークな授業の紹介が続々登場し、たいへん嬉しくなった。
3月3日のワークショップには、あっと驚くような方が何人もフロアに参加され、発表者はさまざまな視角から、近世後期の京都文芸を浮き彫りにした。発表者に美術史の門脇むつみさん、コメンテーターに日本史の鍛治宏介さんと、学際的な集まりとなったが、やはりこのお二人からもたらされた情報が私にとっては非常に貴重なものになった。
そして3月23日の「井口洋の学問と研究」は、昨年なくなられた井口洋先生を偲び、その研究を批判的に検証する会であった。井口先生の研究の素晴らしさと、危うさとが浮き彫りになったが、誰もが感じたのは、井口洋の学問の「面白さ」であろう。コーディネータ・司会は浜田泰彦さん。「主題・解析・本文批判」という副題であった。近松を早川由美さん、西鶴を仲沙織さん、芭蕉を辻村尚子さんが担当し、井口先生の説を入口に、自らの説を披露する形となった。そして井口先生の研究全体について大橋正叔先生が総括する形となった。
私は、みなさんの発表を聞いていろいろ考えさせられた。ただ井口先生の頭の中には、井口先生の考える(あるいは仮構した)西鶴や近松があり、その西鶴や近松が意図した主題を、あの独自のしつこい文体で析出していくのだな、と私なりの理解を述べた。
初期の研究である文壇研究を看過してはならないという福田安典さんの指摘も重要である。実証と論証の両方備えるのが、京大風だという話題もあった。オンラインで参加した中嶋隆さんは、長いお付き合いを踏まえて、鋭利な井口学を分析した。対面で約30名の方が参加し、あーだこーだと言っているのを、泉下の井口先生はどう御覧になっていたのか。たぶん「激怒」(中嶋隆さん)しつつも、喜んでいただろう。
2月17日の国際研究集会では6名が登壇し、我々が開発している「デジタル文学地図」を利用した授業の報告をした。こういう使い方もあるのか、というユニークな授業の紹介が続々登場し、たいへん嬉しくなった。
3月3日のワークショップには、あっと驚くような方が何人もフロアに参加され、発表者はさまざまな視角から、近世後期の京都文芸を浮き彫りにした。発表者に美術史の門脇むつみさん、コメンテーターに日本史の鍛治宏介さんと、学際的な集まりとなったが、やはりこのお二人からもたらされた情報が私にとっては非常に貴重なものになった。
そして3月23日の「井口洋の学問と研究」は、昨年なくなられた井口洋先生を偲び、その研究を批判的に検証する会であった。井口先生の研究の素晴らしさと、危うさとが浮き彫りになったが、誰もが感じたのは、井口洋の学問の「面白さ」であろう。コーディネータ・司会は浜田泰彦さん。「主題・解析・本文批判」という副題であった。近松を早川由美さん、西鶴を仲沙織さん、芭蕉を辻村尚子さんが担当し、井口先生の説を入口に、自らの説を披露する形となった。そして井口先生の研究全体について大橋正叔先生が総括する形となった。
私は、みなさんの発表を聞いていろいろ考えさせられた。ただ井口先生の頭の中には、井口先生の考える(あるいは仮構した)西鶴や近松があり、その西鶴や近松が意図した主題を、あの独自のしつこい文体で析出していくのだな、と私なりの理解を述べた。
初期の研究である文壇研究を看過してはならないという福田安典さんの指摘も重要である。実証と論証の両方備えるのが、京大風だという話題もあった。オンラインで参加した中嶋隆さんは、長いお付き合いを踏まえて、鋭利な井口学を分析した。対面で約30名の方が参加し、あーだこーだと言っているのを、泉下の井口先生はどう御覧になっていたのか。たぶん「激怒」(中嶋隆さん)しつつも、喜んでいただろう。
2024年03月15日
DH国際シンポジウムに登壇しました
この間、報告すべき研究集会・ワークショップがあったのだが、それは後日書くとして、今日のDH国際シンポジウムの会。久しぶりに脳の歯車に油が差された感じになった。この会は、九州大学と人文情報学研究所が主催、2日前には九大「接続する人文学」と題して、今日は東京の一橋講堂で「ビッグデータ時代の文学研究と研究基盤」と題して行われた。ラインナップは下記の通りである。
第一部 ビッグデータ・文学研究・日本での可能性
基調講演 1 「機械学習時代に変わりゆく文学をつかまえること」
Ted Underwood(イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校)
講演 「「遠読」を譯す―本邦における人文学的知のインフラの整備をめぐって」
秋草俊一郎(日本大学 大学院 総合社会情報研究科)
講演 「ユーザ視点のデジタル・ヒューマニティーズ―研究,教育,アウトリーチ」
北村紗衣(武蔵大学人文学部)
第二部 デジタル研究基盤と文学研究
基調講演 2 「研究者がキュレーションした分析、再利用、普及のためのワークセット(SCWAReD)プロジェクト」
J. Stephen Downie(イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校)
講演 「研究データの活用に向けた九州大学における試み」
石田栄美(九州大学データ駆動イノベーション推進本部)
講演 「デジタル×文学研究に期待/妄想すること」
川平敏文(九州大学人文科学研究院文学部門)
講演 「研究・教育ツールとしての日本デジタル文学地図」
飯倉洋一(大阪大学大学院人文学研究科)
総合ティスカッション
ちょっと個人的な思いから先に書くと、DHがらみで私は何度もこれまでも厚顔無恥にプレゼンをしているのだが、自分が主催する研究会やシンポ、自分の知り合いがたくさん発表する研究会やシンポではなく、また単独講演でもなく、「他流試合」とひそかに称している場での発表は、3回目だと思う。これまでの2回は国立国語研究所と上智大学で、たぶんくずし字学習支援アプリのことを話したのであるが、とくに上智大学では英語発表の方が多く、かなり緊張して臨んだ次第。今回も登壇者のほとんどが、はじめてお会いする人である。唯一知っているのは川平氏だけなのだが、彼はオンライン参加。したがって対面では完全に知らない人ばかり。もちろん中心はイリノイ大のお二人の先生なので、打ち合わせの場である控え室では、英語が飛び交っている。「これから打ち合わせをはじめます」という挨拶さえ英語である。これにはのけぞったが、日本語でも説明してくれてほっとした。だが間違いないのは、私以外みんな英語での会話をへとも思っていない人ばかりだということ。もっとも、私もなんとか海外の先生方とは、ひとことふたことの挨拶と名刺交換はしております。
フロアには知っている顔が少しいたが、全体的に日本文学関係者は少ない感じ。Ted先生、Stephen先生への質問は英語でやる人が多い。しかし今回助かったのは同時通訳のレシーバーが配布されたことで、おふたりのDH最前線のお話をストレスなく受講できた。
1000万冊以上のデジタル資料を提供するHathiTrust。たぶん日本文学の研究者はあまりその存在を知らないが、フロアのほとんどは「知っている」に手を上げていた。もちろん日本でも国文研・国会デジコレの急速な展開で、一気にデジタル環境が整ってきている。しかし、なんといってもまだペーパーが主流で、デジタルはあくまで便利なツールにとどまっているだろう。だが、海外は違うな、というのを実感した。
機械学習で文学史やジャンルを考えることができるのか、という問題は重要だが、妙なたとえだが「そこに山があるから登る」というモチベーションのような気がする。でもそういうモチベーションって大事なのかもなとも思う。フランコ・モレッティ『遠読』という本の翻訳者の秋草俊一郎氏も講演され、ありがたかったのだが、日本で「遠読」を研究的実践した例は、すくなくとも日本古典文学研究ではあまり聞かない。しかし、大量のテキストデータが生産されると、「遠読」的方法を用いて論文を書く人も出てくるのだろう。たとえばデータ化が進んでいる大蔵経で、遠読的方法による研究が既にあるのかどうか、聞きたかったのだが、聞きそびれてしまった。ただ、『遠読』は数年前に翻訳が出て、私も購入したのだが、今は品切れだという。これは意外だが、再刷する勢いはなかったのかしらん。まあ、まじめなみすず書房が出しているせいか、あんまり広告は見なかったよね。そしてもう一冊、Hoyt Longの『数の値打ち』という本のことも、教えていただいた。翻訳も出ている。どうも青空文庫などであつめた大量のデータを使って分析をしているらしい。青空文庫の検索窓を作った方だとうかがった。北村紗衣氏は、デジタルツールの情報収集のために学会誌などでデジタルツールレビューをしたらどうかと提案したり、Wikipediaへの関与をウィキペディアンとしてどう実践しているかの報告をされたのが興味深かった。川平氏の話は一番やはり研究領域が近いだけに、そうそうとうなずくばかり。「教育・研究ツールとしてのデジタル文学地図」は、私の名前で発表したが、実際はお断りしたように、開発チーム全員で作ったスライドである。そして、感触としてはまずまずだったかなと思う。スゴ本の伊藤さんが会場にいらっしゃたので驚いたが、「和歌と地図を重ねるのは面白い」と褒めて下さり、クラウドソーシングの可能性について尋ねられた。実はそれずっと前から考えています。しかし校訂本文の問題や、写真掲載の問題など、トラブル発生要素が現時点では多すぎるので悩ましいのである。
総合討論では、あまりにも高度なフロアからの質問が続出。高度というのは専門的という意味ではなく、本質をとらえたという意味である。答える方も四苦八苦である。
場所を変えての立食パーティーでも談論活発。ここで完全に脳の歯車がぐるぐる回り始めたのである。え、酔ってただけではないかって?うーん、否定できないかも(笑)
とまれ、見事な運営を果たした九州大学と人文情報学研究所の皆様、とりわけ私のような者を呼んで下さった永崎研宣さんに深く感謝申し上げます。
第一部 ビッグデータ・文学研究・日本での可能性
基調講演 1 「機械学習時代に変わりゆく文学をつかまえること」
Ted Underwood(イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校)
講演 「「遠読」を譯す―本邦における人文学的知のインフラの整備をめぐって」
秋草俊一郎(日本大学 大学院 総合社会情報研究科)
講演 「ユーザ視点のデジタル・ヒューマニティーズ―研究,教育,アウトリーチ」
北村紗衣(武蔵大学人文学部)
第二部 デジタル研究基盤と文学研究
基調講演 2 「研究者がキュレーションした分析、再利用、普及のためのワークセット(SCWAReD)プロジェクト」
J. Stephen Downie(イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校)
講演 「研究データの活用に向けた九州大学における試み」
石田栄美(九州大学データ駆動イノベーション推進本部)
講演 「デジタル×文学研究に期待/妄想すること」
川平敏文(九州大学人文科学研究院文学部門)
講演 「研究・教育ツールとしての日本デジタル文学地図」
飯倉洋一(大阪大学大学院人文学研究科)
総合ティスカッション
ちょっと個人的な思いから先に書くと、DHがらみで私は何度もこれまでも厚顔無恥にプレゼンをしているのだが、自分が主催する研究会やシンポ、自分の知り合いがたくさん発表する研究会やシンポではなく、また単独講演でもなく、「他流試合」とひそかに称している場での発表は、3回目だと思う。これまでの2回は国立国語研究所と上智大学で、たぶんくずし字学習支援アプリのことを話したのであるが、とくに上智大学では英語発表の方が多く、かなり緊張して臨んだ次第。今回も登壇者のほとんどが、はじめてお会いする人である。唯一知っているのは川平氏だけなのだが、彼はオンライン参加。したがって対面では完全に知らない人ばかり。もちろん中心はイリノイ大のお二人の先生なので、打ち合わせの場である控え室では、英語が飛び交っている。「これから打ち合わせをはじめます」という挨拶さえ英語である。これにはのけぞったが、日本語でも説明してくれてほっとした。だが間違いないのは、私以外みんな英語での会話をへとも思っていない人ばかりだということ。もっとも、私もなんとか海外の先生方とは、ひとことふたことの挨拶と名刺交換はしております。
フロアには知っている顔が少しいたが、全体的に日本文学関係者は少ない感じ。Ted先生、Stephen先生への質問は英語でやる人が多い。しかし今回助かったのは同時通訳のレシーバーが配布されたことで、おふたりのDH最前線のお話をストレスなく受講できた。
1000万冊以上のデジタル資料を提供するHathiTrust。たぶん日本文学の研究者はあまりその存在を知らないが、フロアのほとんどは「知っている」に手を上げていた。もちろん日本でも国文研・国会デジコレの急速な展開で、一気にデジタル環境が整ってきている。しかし、なんといってもまだペーパーが主流で、デジタルはあくまで便利なツールにとどまっているだろう。だが、海外は違うな、というのを実感した。
機械学習で文学史やジャンルを考えることができるのか、という問題は重要だが、妙なたとえだが「そこに山があるから登る」というモチベーションのような気がする。でもそういうモチベーションって大事なのかもなとも思う。フランコ・モレッティ『遠読』という本の翻訳者の秋草俊一郎氏も講演され、ありがたかったのだが、日本で「遠読」を研究的実践した例は、すくなくとも日本古典文学研究ではあまり聞かない。しかし、大量のテキストデータが生産されると、「遠読」的方法を用いて論文を書く人も出てくるのだろう。たとえばデータ化が進んでいる大蔵経で、遠読的方法による研究が既にあるのかどうか、聞きたかったのだが、聞きそびれてしまった。ただ、『遠読』は数年前に翻訳が出て、私も購入したのだが、今は品切れだという。これは意外だが、再刷する勢いはなかったのかしらん。まあ、まじめなみすず書房が出しているせいか、あんまり広告は見なかったよね。そしてもう一冊、Hoyt Longの『数の値打ち』という本のことも、教えていただいた。翻訳も出ている。どうも青空文庫などであつめた大量のデータを使って分析をしているらしい。青空文庫の検索窓を作った方だとうかがった。北村紗衣氏は、デジタルツールの情報収集のために学会誌などでデジタルツールレビューをしたらどうかと提案したり、Wikipediaへの関与をウィキペディアンとしてどう実践しているかの報告をされたのが興味深かった。川平氏の話は一番やはり研究領域が近いだけに、そうそうとうなずくばかり。「教育・研究ツールとしてのデジタル文学地図」は、私の名前で発表したが、実際はお断りしたように、開発チーム全員で作ったスライドである。そして、感触としてはまずまずだったかなと思う。スゴ本の伊藤さんが会場にいらっしゃたので驚いたが、「和歌と地図を重ねるのは面白い」と褒めて下さり、クラウドソーシングの可能性について尋ねられた。実はそれずっと前から考えています。しかし校訂本文の問題や、写真掲載の問題など、トラブル発生要素が現時点では多すぎるので悩ましいのである。
総合討論では、あまりにも高度なフロアからの質問が続出。高度というのは専門的という意味ではなく、本質をとらえたという意味である。答える方も四苦八苦である。
場所を変えての立食パーティーでも談論活発。ここで完全に脳の歯車がぐるぐる回り始めたのである。え、酔ってただけではないかって?うーん、否定できないかも(笑)
とまれ、見事な運営を果たした九州大学と人文情報学研究所の皆様、とりわけ私のような者を呼んで下さった永崎研宣さんに深く感謝申し上げます。
2024年03月12日
最盛期読本の総合的研究
科研報告書の季節である。『最盛期読本の総合的研究』藤沢毅(研究代表者)、天野聡一、大屋多詠子、菊池庸介、木越俊介、田中則雄、中尾和昇、菱岡憲司、藤川玲満、三宅宏幸というメンバー。読本研究を引っ張っている西日本の研究者中心の精鋭たちだ。編者名も「西日本近世小説研究会編」となっている。
このメンバーは、継続的に読本の悉皆調査を目指して、次々に読本解題を報告書として刊行してきた。研究プロジェクトの継承は下記の通り。
2012-15 文政期読本の基礎的研究 研究代表者 田中則雄
2016-19 19世紀初頭・長編小説生成期における構成・素材・記述に関する総合的研究 研究代表者 木越俊介
国文学研究資料館にいた大高洋司氏の編んだ『読本事典』(2008)を継承するものである。
この基礎的な仕事があって、今の読本研究の堅固な地盤がある。思えば故横山邦治先生が発刊した『読本研究』から脈々と受け継がれる流れである。
最盛期とは文化五・六年だが、報告書は文化七・八年まで収めている。藤沢さんによる概観と、木越さんによる史的見通し、ほかそれぞれの研究者による各論があり、八二点の解題が記される。報告書はA4判であるが、解題は三段組ですべてちょうど1頁に収まっているのも見事である。字数調整にかなり苦労されたに違いない。
はじめにで藤沢さんいわく、「次に期待されるのは、文化九年から同一四年までの同様の調査研究である。これが成し遂げられれば、享和期から文政期までの読本の全貌が見渡せることになる」と。
まさにそれは待望される。そして願わくば、志ある出版社が、全体をひとつにした「読本大事典」を作っていただきたい。ただ、その場合、むずかしいのは前期読本の扱いですね。私見では後期読本だけでも、「読本大事典」を名乗って問題ないと思っていますが・・・。
このメンバーは、継続的に読本の悉皆調査を目指して、次々に読本解題を報告書として刊行してきた。研究プロジェクトの継承は下記の通り。
2012-15 文政期読本の基礎的研究 研究代表者 田中則雄
2016-19 19世紀初頭・長編小説生成期における構成・素材・記述に関する総合的研究 研究代表者 木越俊介
国文学研究資料館にいた大高洋司氏の編んだ『読本事典』(2008)を継承するものである。
この基礎的な仕事があって、今の読本研究の堅固な地盤がある。思えば故横山邦治先生が発刊した『読本研究』から脈々と受け継がれる流れである。
最盛期とは文化五・六年だが、報告書は文化七・八年まで収めている。藤沢さんによる概観と、木越さんによる史的見通し、ほかそれぞれの研究者による各論があり、八二点の解題が記される。報告書はA4判であるが、解題は三段組ですべてちょうど1頁に収まっているのも見事である。字数調整にかなり苦労されたに違いない。
はじめにで藤沢さんいわく、「次に期待されるのは、文化九年から同一四年までの同様の調査研究である。これが成し遂げられれば、享和期から文政期までの読本の全貌が見渡せることになる」と。
まさにそれは待望される。そして願わくば、志ある出版社が、全体をひとつにした「読本大事典」を作っていただきたい。ただ、その場合、むずかしいのは前期読本の扱いですね。私見では後期読本だけでも、「読本大事典」を名乗って問題ないと思っていますが・・・。
2024年03月11日
江戸の合巻
佐藤至子(ゆきこ)さんの『幕末の合巻 江戸文学の終焉と転生』(岩波書店、2024年2月)が刊行されている。
「合巻」とは何か。本書の「はじめに」に次のようにある。
「合巻は江戸で出版された草双紙の一種である。草双紙は中本と呼ばれる書型の絵入りの読み物で、赤本・黒本・青本・黄表紙・合巻の五種類がある」
「合巻は、黄表紙の後継のジャンルとして文化期(1804〜18)に発生し、明治20年(1877)頃まで続いた」
では、草双紙とは?「ほぼすべての紙面に絵があり、絵の余白に文字が書かれている」。「草双紙には五丁(10頁)を一巻と数える慣習があり」「数巻を合わせて一冊に綴じる方法がとられるようになり、それを「合巻」と呼んだ」。
このように、「合巻」は、草双紙、つまり絵本の流れにある。合綴されることにより、一定以上の長さが生まれ、豊かな物語性をもつことになる。形としては黄表紙、内容としては読本(よみほん)に近づくのである。
「合巻」を正面から謳った研究書は私の記憶ではほとんどない。本書は、今後合巻研究者が必ず手に取るべき本になるだろうし、合巻研究の入門書の役割をも果たす。それに耐えうる内容・構成を持っている。というのも、本書第1部の第1章「合巻の流れ」で、合巻の概要と合巻史がわかりやすく叙述されているし、第2章では明治以後現代にいたるまでの研究史が、文学研究の中に位置づけられながら概説される。著者も、本書が合巻の基本図書になるであろうというじ自負のもとに、第1部を書き下ろしたのであろう。徹底的な先行文献の紹介で、合巻研究初心者は、安心して合巻の研究世界に導かれる。
第2部・第3部は合巻を代表する作品である『児雷也豪傑譚』と『白縫譚』をそれぞれ論じる。『白縫譚』は合巻の中で最も長い。国書刊行会から佐藤さんの校訂で3冊本が刊行された時には目を剥いた。こんなものを一人で・・・と。しかし、とある学会の二次会の席でご一緒した長島弘明さん(佐藤さんの指導教員)から佐藤さんが修論を書き上げた際に、黄表紙という黄表紙を読み尽くした、とおっしゃていたことから、なるほどその人なら、とも思ったものだ。まだ佐藤さんのことをあまり存じ上げなかった。第2部第五章の「長編合巻を作る−キャラクターと見せ場」は、読者を意識した合巻の作り方を解説したもの。
第4部の「越境する合巻」は、合巻と歌舞伎、合巻と読本という隣接ジャンルとの交渉を明らかにしていてる。歌舞伎・読本・合巻という三つのジャンルの相互影響と相互依存、共栄のありさまが具体的にわかる。またこれらのジャンルが「世界」と「趣向」という作品創造の方法を共有していることもよくわかる。その上で、第三章の「伝奇性と当世性」は、「芸者像」にフォーカスしながら、優れた合巻の伝奇性と当世性の接合を解説してゆく。さらに、越境は時間をも越える。第五章「合巻と転生ー虚構の生命力」は、「転生」というキーワードで、合巻研究を一気に平安時代から、そして現代へと繋ぐ。紹介されている高木元さんの「八犬伝の後裔」における九つの受容のありかた(翻刻・抄録・改作・外伝化・戯曲化・図像化、蘊蓄、翻訳、研究)を最初に紹介されているが、この内の外伝化(スピンオフ)を「転生」という言葉で呼ぶ。「転生」の主体は虚構自体。虚構自体に転生する力が内包されている、それを虚構の生命力と佐藤さんは考える。
去年の二月に開かれた国際シンポジウム「古典の再生」は、高木さんのいうさまざまな受容のあり方を2日間にわたって議論した。それは3月末に書籍化されるが、そこに「転生」という言葉は出ていなかった。なるほど、やられた!と、個人的には思う。それほど「転生」という語は、魅力的なのである。
合巻は、絵が主体であり、現代のマンガ・アニメに「転生」しているため、海外の人が興味をもつポテンシャルがあることに気づかされる。なにしろ、江戸時代の本も、絵があれば海外の人の興味を引く。ホノルル美術館のリチャード・レイン文庫の膨大な絵本コレクションを見れば明らかである。絵入読物は美術史側からも現時点ではあまり手をつけられていない(辻惟雄氏は例外)が、本書は学際的・国際的に合巻研究を普及する起爆剤になるのではないだろうか。
「合巻」とは何か。本書の「はじめに」に次のようにある。
「合巻は江戸で出版された草双紙の一種である。草双紙は中本と呼ばれる書型の絵入りの読み物で、赤本・黒本・青本・黄表紙・合巻の五種類がある」
「合巻は、黄表紙の後継のジャンルとして文化期(1804〜18)に発生し、明治20年(1877)頃まで続いた」
では、草双紙とは?「ほぼすべての紙面に絵があり、絵の余白に文字が書かれている」。「草双紙には五丁(10頁)を一巻と数える慣習があり」「数巻を合わせて一冊に綴じる方法がとられるようになり、それを「合巻」と呼んだ」。
このように、「合巻」は、草双紙、つまり絵本の流れにある。合綴されることにより、一定以上の長さが生まれ、豊かな物語性をもつことになる。形としては黄表紙、内容としては読本(よみほん)に近づくのである。
「合巻」を正面から謳った研究書は私の記憶ではほとんどない。本書は、今後合巻研究者が必ず手に取るべき本になるだろうし、合巻研究の入門書の役割をも果たす。それに耐えうる内容・構成を持っている。というのも、本書第1部の第1章「合巻の流れ」で、合巻の概要と合巻史がわかりやすく叙述されているし、第2章では明治以後現代にいたるまでの研究史が、文学研究の中に位置づけられながら概説される。著者も、本書が合巻の基本図書になるであろうというじ自負のもとに、第1部を書き下ろしたのであろう。徹底的な先行文献の紹介で、合巻研究初心者は、安心して合巻の研究世界に導かれる。
第2部・第3部は合巻を代表する作品である『児雷也豪傑譚』と『白縫譚』をそれぞれ論じる。『白縫譚』は合巻の中で最も長い。国書刊行会から佐藤さんの校訂で3冊本が刊行された時には目を剥いた。こんなものを一人で・・・と。しかし、とある学会の二次会の席でご一緒した長島弘明さん(佐藤さんの指導教員)から佐藤さんが修論を書き上げた際に、黄表紙という黄表紙を読み尽くした、とおっしゃていたことから、なるほどその人なら、とも思ったものだ。まだ佐藤さんのことをあまり存じ上げなかった。第2部第五章の「長編合巻を作る−キャラクターと見せ場」は、読者を意識した合巻の作り方を解説したもの。
第4部の「越境する合巻」は、合巻と歌舞伎、合巻と読本という隣接ジャンルとの交渉を明らかにしていてる。歌舞伎・読本・合巻という三つのジャンルの相互影響と相互依存、共栄のありさまが具体的にわかる。またこれらのジャンルが「世界」と「趣向」という作品創造の方法を共有していることもよくわかる。その上で、第三章の「伝奇性と当世性」は、「芸者像」にフォーカスしながら、優れた合巻の伝奇性と当世性の接合を解説してゆく。さらに、越境は時間をも越える。第五章「合巻と転生ー虚構の生命力」は、「転生」というキーワードで、合巻研究を一気に平安時代から、そして現代へと繋ぐ。紹介されている高木元さんの「八犬伝の後裔」における九つの受容のありかた(翻刻・抄録・改作・外伝化・戯曲化・図像化、蘊蓄、翻訳、研究)を最初に紹介されているが、この内の外伝化(スピンオフ)を「転生」という言葉で呼ぶ。「転生」の主体は虚構自体。虚構自体に転生する力が内包されている、それを虚構の生命力と佐藤さんは考える。
去年の二月に開かれた国際シンポジウム「古典の再生」は、高木さんのいうさまざまな受容のあり方を2日間にわたって議論した。それは3月末に書籍化されるが、そこに「転生」という言葉は出ていなかった。なるほど、やられた!と、個人的には思う。それほど「転生」という語は、魅力的なのである。
合巻は、絵が主体であり、現代のマンガ・アニメに「転生」しているため、海外の人が興味をもつポテンシャルがあることに気づかされる。なにしろ、江戸時代の本も、絵があれば海外の人の興味を引く。ホノルル美術館のリチャード・レイン文庫の膨大な絵本コレクションを見れば明らかである。絵入読物は美術史側からも現時点ではあまり手をつけられていない(辻惟雄氏は例外)が、本書は学際的・国際的に合巻研究を普及する起爆剤になるのではないだろうか。
2024年03月02日
後陽成天皇
20名以上の歴史学・日本文学・美術史らの研究者を糾合して、後陽成天皇とその時代を多面的に追究する橋本政宣『後陽成天皇』(宮帯出版社、2024年1月)が刊行された。「秀吉と対峙しつつ宮廷文化・文芸を復興させた聖王」という副題である。江戸時代における上方(京都)の文芸を考えるには、どの時期であっても天皇の文事は避けられない。後水尾天皇・霊元天皇・光格天皇はその中でもきわめて重要で、これまでも盛んに論じられてきた。しかし、なんといっても、江戸時代成立の際に天皇であった後陽成天皇は、その始発なのだから、その文学的な意味を、きちんと教えてくれる本が欲しかったわけだが、まさに、現時点における決定版となるのが本書だろう。天皇の文事を考えるには、もちろん政治が強く関わる。とりわけ、後陽成天皇時代における朝廷は、江戸幕府という統一政権成立に深く関わる。それを詳細に教えてくれるのが本書である。秀吉との対峙のあり方も重要である。
そういう意味で、歴史研究者の書いた文章が私には興味深かった。巻頭の橋本先生の総論はもちろんだが、矢部健太郎氏「豊臣摂関家の形成と「武家家格制」、藤田恒春氏「関白豊臣秀次と文事策」、田中暁龍氏「江戸幕府の成立と朝廷」、岸泰子氏「内裏・院御所の造営と公家屋敷地の形成」らが勉強になる。またコラムだが、川上一氏の「後陽成天皇歌壇寸見ー『慶長千首』から−」は、「現代の我々に当日の空気感を十分に伝えてくれている」資料の紹介だが、なにか後陽成天皇の人間性に触れたような気持ちにさせるもので、その「切り取り力」に感心した。
もちろんその他の論考も興味津々である。六〇〇頁超の大冊で、これを1頁1頁めくっていくと、それだけでも昂揚を覚える。
それにしても、本書には「はじめに」や「あとがき」がなく、なぜこのような論集を企画したのか、そのコンセプトや人選についての編者のコメントがないのが残念である。出来上がるまでかなりの歳月を費やしたらしいことは、何人かの論考の付記で推測されるのだが、そのあたりの苦労話などは・・・。と、大体、本のあとがきから読む私には、そこのところがちょっと物足りなかったのであった。
そういう意味で、歴史研究者の書いた文章が私には興味深かった。巻頭の橋本先生の総論はもちろんだが、矢部健太郎氏「豊臣摂関家の形成と「武家家格制」、藤田恒春氏「関白豊臣秀次と文事策」、田中暁龍氏「江戸幕府の成立と朝廷」、岸泰子氏「内裏・院御所の造営と公家屋敷地の形成」らが勉強になる。またコラムだが、川上一氏の「後陽成天皇歌壇寸見ー『慶長千首』から−」は、「現代の我々に当日の空気感を十分に伝えてくれている」資料の紹介だが、なにか後陽成天皇の人間性に触れたような気持ちにさせるもので、その「切り取り力」に感心した。
もちろんその他の論考も興味津々である。六〇〇頁超の大冊で、これを1頁1頁めくっていくと、それだけでも昂揚を覚える。
それにしても、本書には「はじめに」や「あとがき」がなく、なぜこのような論集を企画したのか、そのコンセプトや人選についての編者のコメントがないのが残念である。出来上がるまでかなりの歳月を費やしたらしいことは、何人かの論考の付記で推測されるのだが、そのあたりの苦労話などは・・・。と、大体、本のあとがきから読む私には、そこのところがちょっと物足りなかったのであった。