2024年04月09日

方丈記を読む

荒木浩さんの『方丈記を読む 孤の宇宙へ』(法蔵館文庫、2024年3月)。荒木さんによれば、『古典の中の地球儀』(NTT出版)、『京都古典文学巡り』(岩波書店)と3部作をなすという(後述のトークイベント)。
気づけば川平敏文さんのブログでも2日前に紹介されているようだが、かぶらないように、この本について書いてみる。
この本についてのトークイベントが丸善で行われたようで、私はたまたまそのアーカイブを見付けて、拝聴した。https://twitter.com/hiroark7/status/1775876022959067638そのトークイベントも荒木節満開!心地よいテンポで自由自在に古今東西の話題を引いての楽しいお話だった。その時、荒木さん自身も言及していたが、この本の帯には「とかく、この世は住みにくい」とだけある。もちろんあの『草枕』の冒頭部分に出てくる言葉だ。本書には漱石と『方丈記』の関わりについて述べた部分があって、そこが例に漏れず面白いのである。
漱石は学生時代に先生に頼まれて『方丈記』の英訳をした。古文を英訳するのは大変だ。それで『方丈記』が漱石の身にしみこんだ。『倫敦塔』にも影響がみられて、方丈記に影響されたと思しい文章を(漱石が)引きつつ自身「禅語めくが」と述べる。その「禅語めくが」に注目して考察を展開するのが荒木さんならではだ。漱石は、方丈記を「禅の本」として認識していた・・・。
 また太宰と方丈記についてもさらっと述べているが、これも面白い。
 長明がどう考えていたかという深掘り(読み)とともに、長明はどう読まれていたかという問題がこの本にはあり、『方丈記』を読む、の「読む」が、まさにグローカル(荒木用語か)に考えられている。そして、これはまさに「古典の再生」の問題なのだ。


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2024年04月02日

石水博物館所蔵岡田屋嘉七・城戸市右衛門他書肆書簡集

 青山英正編『石水博物館所蔵岡田屋嘉七・城戸市右衛門他書肆書簡集』(和泉書院、2024年2月)。帯に「近世の書物流通の実態を浮かび上がらせる一級資料」とある通り、書肆研究、蔵書研究にきわめて意義のある資料の翻刻で、我々の受ける恩恵は計り知れない。とにかくこの石水博物館の蔵書はすごくて、2021年には小津桂窓書簡集がやはり和泉書院から刊行されたが、そこに出てくる上田秋成ほか上方文人資料の豊かさに驚いたものだが、今回の書肆書簡は、実にリアルに当時の書物流通の様相を、かつてない大量の書簡で知らしめるという点でまた驚かされる。岡田屋と城戸の書簡が圧倒的に多いのだが、両書肆の営業方法の違いも浮かび上がるだけの量が翻刻された。二百数十点にわたる書簡から得られる情報は実に多い。

 ここから脱線するが、川喜田家宛書簡の翻刻であるが、書肆の宛先表記は「川北」「川喜田」「川喜多」「河喜田」・・・と多様である。通称などの表記もそうだが、江戸時代の固有名詞表記は人名に限らず、結構ゆるい。国語表記史研究ではそこをどう捉えているのだろうか?かなりむかし、とある学会で馬琴の発表をした大学院生に、国語学研究者から、表記の違いの意味についてどう思うかという質問が出て、院生が「近世ではあんまり表記の統一を厳密にやらないと思います」みたいな回答をしたところ、質問した研究者がムキになって発表者を問いつめるみたいな場面があった(記憶なので不正確かも)のを思い出した。
 
 さて、やはり書簡というのは、書籍目録や、蔵書目録がもたらす情報に比べると、比較にならないくらいに情報量が多いのはいうまでもないが、手紙を書く側、受け取る側の人間性まで浮き彫りにされるのが、すごい。だが、これを翻刻するのはものすごく大変である。近世の書簡などというものは、やはり何人かで読まないとなかなか完全には読めないものである。青山さん単著なのだが、これは単独作業ですか?だとしたらとてつもないことである。青山さんはこの4月、自身ご出身の東大(駒場)に着任されたようだ。二重におめでとうございます。
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