2024年05月21日

新しい古典籍入門の本ー『本 かたちと文化』

国文学研究資料館編『本 かたちと文化 古典籍・近代文献の見方・楽しみ方』(勉誠社、2024年2月)。
国文研で行われていた日本古典籍講習会という催しを書籍化した本。全9章からなる。「はじめての古典籍」「くずし字」「写本」「版本」「装訂と料紙」「表紙文様」「印」「江戸の出版文化」「近代本の世界」。コラムも交えた、古典籍入門というべき本。初心者向けとはいえ、専門家にも十分役立つものとなっている。木越俊介氏のコラム、「国書データベースで複数の画像を比較するには」は、画像上で、たとえば東洋大学哲学堂文庫の本と、国文学研究資料館の本の同じ丁の版面を比較したいときに、どうやればいいかが簡単に説明されている。IIIF(トリプルアイエフ)準拠で、諸本比較ができることは知っていても、され具体的にはどうすればいいの?何を見ればそれがわかるの?と思っている人は案外専門家でも少なくないのではないか。そんな時にはこのコラムを読めば、すぐにわかります。
 書誌学というものは、元来原物を前に教えていただくものであるから、もちろん隔靴掻痒の部分があることは仕方がない。実際には、副読本という位置づけになるだろう。ただ本書はモノクロだが、電子版ではオールカラーだそうで、半額クーポンが挟まれていた。とまれ、古典籍を実際に扱う人は、座右に置いておいたらよいのではないか、そう思わせる本である。
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2024年05月20日

「戯画図巻」の世界

 斎藤真麻理編『「戯画図巻」の世界』(KADOKAWA、2024年3月)。本当に面白い絵巻である。10本以上の諸本があるというが、その成立時期・画者・注文者・場面の順序・世界観・絵画史上の位置などなど、謎につつまれていて、それがまた面白い。観音様が銃を構えている「スナイパー観音」が話題になっているが、それ以外にも奇想天外な図案が多く、とはいえいずれも教養なくしてその面白さが解らないという知的興趣にみちた絵巻である。
 学際的な共同研究で、知り合いの方が多く関わっていることもあり、解説や論考・コラムを興味深く拝見した。
 全体の問題点を知るのには、加藤祥平氏の「「戯画図巻」を再考する」が便利だろう。すべての論考コラムが勉強になるが、特に面白かったのは、黒田智氏「江戸の武士と釣りブーム」、井田太郎氏「「狂画」とその周辺」、山本嘉孝氏の「「戯画図巻」をとりまく老荘思想」、門脇むつみ氏の「「戯画図巻」の誕生」、大谷節子氏の「加筆される機知」であった。雅なのか俗なのか、いろいろ呑み込んで、常識を越えて、見るものが教養で遊べる、高度な作品であることが、諸氏の解説でよくわかるし、多くの謎が残されているのが魅力的である。
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2024年05月12日

歌合の本質と展開

安井重雄編『歌合の本質と展開 中世・近世から近代へ』(法蔵館、2024年2月)。
龍谷大学世界仏教研究センターのプロジェクト「歌合の本質とその集積についての研究」の研究成果としての論文集で、11の論文から成る。
最近、私も『十番虫合絵巻』というテキストの注釈に関わった(『江戸の王朝文化復興』)こともあり、興味を持って拝読。
プロジェクトのタイトル、そして書名にあえて「歌合の本質」を謳う意気込み、単に「歴史」「展開」ではなく、そこを議論するのか!と期待した。しかしながら、「歌合の本質」を正面から論じたり、研究会でテーマとしたわけではなかったようだ。「まえがき」や各論からそれを伺わねばならない。
すると安井さんの「まえがき」に、「歌合は本質的に競合する和歌とその勝負、権威性の磁力を持つ空間、主催者・出詠者・判者等構成人員間が生み出す緊張感関係を有しており、この緊張関係が秀歌を生み出すエネルギーにもなっていよう」とあって、この会の共有する見解なのかと思われた。また「小澤蘆庵による歌合の収集と集積の調査」がこのプロジェクトの前身プロジェクトの内容だったが、「歌合写本が集積され再び利用される過程に歌合が含み持つ本質的問題とその展開の様相が窺えるようにも思われる」とも言う。「集積」はプロジェクトタイトルでもあるので、ここのところはもうすこし解りやすく説明してほしい。全体としては、歌合の判詞を読むというより、行事・パフォーマンス・場としての「歌合」について諸論言及している印象があり、それが安井さんのいう「本質」と響き合うのかなと思った。
 近世編では、神作研一・大谷俊太・大山和哉・加藤弓枝四氏が論考を寄せている。神作研一さんは歌合の刊本年表に加え、近世歌合の「諸問題」を概観した趣だが、最も注目されるのは、堂上地下が一堂に会して行われて近世和歌史の画期となったとされる「大愚歌合」に遡る寛政四年以前に、すでに堂上地下混合で地下歌人(澄月)加判という歌合が行われたことが、新資料「武者小路家五首歌合」という資料から解るというもの。全文の翻刻が待たれる。ちなみにこの歌合には女性が含まれているのも看過できない。
 近世編で「本質」という点にもっとも切り込んでいるとみなすことのできるのは、大谷論文である。この歌合を最後に宮廷歌合が終焉したことで知られる寛永十六年仙洞歌合の「実態」を、高梨素子氏の先行研究を踏まえつつ、諸資料を駆使して考究する。後水尾院は、勝ち負けを競うよりは和歌習練の場だと思っていたようだとする。しかし後水尾院自身が判をしたわけではない。参加者自身が、後水尾院の思惑にかかわらず、勝負を気にするわけで、そうなることは院もやはりわかっていたのだろう。院の立場としては、和を尊び、万人に調和をもたらすことだから。それで判を三条西実条にさせたのだが、これが物議をかもす一因になったようである。どうみても構図的に無理があって、その後、宮廷歌合は途絶えてしまった。そんな感じだろうか(誤読ならごめんなさい)。
 有名な、忠見と兼盛の名歌同士の番を持ち出すまでもなく、勝負事の体裁を取る以上、負けた方が個人的にも、「家」としても、そして師匠もろとも、傷を蒙る。そこで、負けないような周到な準備や、負けても傷つかないような配慮や、勝たせるような忖度が行われる。この「人間関係」と「歌学向上」とが、葛藤し、「人間関係」が肥大したときに、歌合の実施は困難になる・・・のかな?
 もっとも、歌合が地下にも展開し、身分違いの者が同席する会となると、また様々な「人間関係」が関わらざるを得ない。
 どうも、私の下卑た読み方では、歌合の本質は、「人間関係」ということになってしまいそうである。良い読者ではない。

 さて、小川剛生さんの講演があったらしいが是非活字化して載せてほしかったです。
 いろいろ妄言を連ねましたが、大変勉強になりました。ありがとうございます。

追記:小川剛生さんの講演は、『古典文学研究の対象と方法』(花鳥社、2024年3月)に収録されていました。

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2024年05月11日

西山宗因の研究

 尾崎千佳さんが西山宗因研究を一書に成した。その名もずばり『西山宗因の研究』(八木書店、2024年3月)である。
 尾崎さんが献身的な働きをして成った『西山宗因全集』の版元八木書店から出たのは当然であろう。692頁の大冊。
 自著解説は、こちらのコラム。
 西山宗因の研究書(論文集)は初めてなのだという。これは意外だ。これだけ連歌史・俳諧史で重要な存在なのに。
 尾崎さんは、まぎれもない宗因研究の第一人者。満を持してという言葉にふさわしい研究書(論文集+年譜考証)の発刊は、連歌研究、俳諧研究、近世文学研究にとってまさに慶事である。
 尾崎千佳さんと私とは、かなり縁がある。尾崎さんは長崎市出身。私も事実上の長崎市出身(実は大分県生まれだが、1歳の時に長崎市へ)。そして、2001年、私は山口大学から大阪大学に転任したが、私の後任として同年、山口大学に就職したのが、大阪大学出身の尾崎さん。まるで交換トレードのように。「バーター」だと言われたこともある。
 転任する直前、2001年の3月だったと思うが、私は大阪府立中之島図書館に行った。記憶が間違っていなければ水田紀久先生の講演を聞くことが目的のひとつだった。私がまさに入ろうとしたその時に、尾崎さんが図書館から出てきた。もちろん互いに消息を知っていたので、「おーっ!」となった。家人も一緒だったが、「このあと待ち合わせて飲みに行きましょう」となって、梅田の茶屋町あたりの居酒屋で語り合ったことがある。
 その後、『上方文藝研究』や阪大と国文研の共同プロジェクトであった忍頂寺文庫・小野文庫の研究で、OBの一人としてご協力を仰いだ。一方、私が14年もいて果たせなかった山口大学所蔵和古書目録を彼女は立派に完成させた。私が指導していた院生も引き継いでくださり、驚くほどきちんとした論文を書かせていた。その後も尾崎さんが指導した学生はいい論文を『山口国文』に載せていて、教育者としても尾崎さんが優れていることを示している。
 ちなみに山口は大内氏文化を継承した町であり、連歌にふさわしい土地である。尾崎さんは、社会連携活動として、現代における連歌の普及にも尽力しているし、学生も連歌の魅力にひかれて活動をしているようであるhttps://www.hmt.yamaguchi-u.ac.jp/2016/12/26/13572.htmlこれぞ、「古典の再生」ではないか。私は在職中遊び呆けていたが、後任の尾崎さんは、地域と大学のために、身を粉にして働き、なおかつ『西山宗因全集』(文部科学大臣賞受賞)という学会への貢献をし、そしてついに決定版ともいえる宗因研究書をまとめたのであり、これはもう称賛しかない。連歌を実際に市民に普及したり、文化として復元するのは、師の島津忠夫先生の志を継ぐものである。そして、偉大すぎる島津先生の言葉が、彼女を苦しめたのもまた事実である。しかし、この本で、尾崎さんは島津先生の期待に見事に応えたと言えるだろう。
 さて、『西山宗因の研究』に戻ろう。尾崎さんは、冒頭で、宗因研究の先達である野間光辰の説を挙げている。野間は、「宗因の本業はあくまで連歌にあり、俳諧は余技であったことを繰り返し主張」、「俳諧師宗因」というより「連歌師宗因」として理解すべきだと言い、文学史を塗り替えた。しかし尾崎さんは、言う。「「俳諧師宗因」にせよ」連歌師宗因」にせよ、宗因の存在を固定的に把握する点において、文学史にとって両者はまったく等価である」。つまり、前者は芭蕉を頂点とする俳諧史観、後者は連歌の時代を中世に求める連歌史観に立つのだと。「あらかじめ定められた価値を目指す研究の描く文学史は、その方法において」「静態的である」。宗因という人物をよく見よ!事実を踏まえて考えよ! そうすると、宗因が連歌師と俳諧師という二つの立場に生きたという事実の意味を徹底して問わなければならない、という尾崎さんのスタート地点(問題意識)が浮かび上がってくる。まさにそれを問うたのがこの研究書である。「近世初期の文化・政治・社会の状況と関わらせつつ具体的に考証する」。
 野間光辰の築いた宗因像は、本書によってかなり相対化された(という言い方はまだ緩いかもしれない)。一方で、尾崎さんは「虚と実」をキーワードとする。「虚像を解体してその実像に接近し、実像の成した虚構の意味を読み解く」という。つまり作品研究もしっかりとやっている。
 前者においては、第一部第三章「宗因における出家とその意味」から第五章「連歌師宗因の俳諧点業」まで、緻密な考証に基づく、あたらな宗因像が提示される。後進は、この尾崎さんの提示した新たな宗因像を前提に、これに立ち向かうことになる。
 後者においては、第二部の宗因の紀行文の考察が白眉で、古典を活用した虚構の生成を見事に描き出している。学会発表の時に聞いて実にワクワクした記録のあるものだ。
 そして、宗因論の現時点での集大成として、約80頁にも及ぶ、「主従の連歌から職業としての連歌へ」がある。本書のための書き下ろしである。注が250を越える。「近世武家社会における連歌の情理」という副題が、尾崎さんのスタンスをよく示している。これは到達点というより、出発点なのだろう。今後の宗因論は、この論ぬきには始められないだろう。
 尾崎さんは、先に挙げたコラムの中でこう言っている。
「個々の作品が〈いつ〉成立したかだけではなく、〈どこで〉成立したかに迫らなければ見えてこないものがある。複数の人物の居所情報の編年集成によって時代の動態を複眼的に提示した『近世前期政治的主要人物の居所と行動』(1994年、京都大学人文科学研究所)や『織豊期主要人物居所集成 第2版』(2016年、思文閣)など、歴史学の手法にも学びつつ、作品から行為がたちあらわれるように、連歌・連句についてはもちろん、発句についても能う限りその成立の「場」を復元することに努めた。」と。深く頷いてしまう。私も文芸生成の〈場〉が大事だと考えている。前回の科研課題のタイトルも、その言葉を出した。しかし、これは言うのは簡単だか、場を復元するのは大変むずかしいことだ。しかし、志向としては、とても重要なことで、これからの文学研究の視点として欠かせざるものだと考えている。その志を持った研究書であるということに、私の深い慶びがある。
 そして、本当は一書として出してもよかったと思われる、本書の過半を占める「年譜考証」。数ある優れた年譜考証の仲間入りをしたと言ってもよい。「考証」の部分が実に丁寧で力強い。
 最後にもう一度、素晴らしい研究書、ありがとうございます。
 さらなる研究の進展を心からお祈り申し上げます。
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