勉誠社の『書物学』は創刊されて10年以上、このほど26号を刊行した(2025年2月)。文学研究は、本文(絵)だけではなく、本をモノとして対象化し研究することが重要であることは、21世紀になってから、おおむね常識となった。とはいえ、「書誌学」「書物学」という授業が、大学のいわゆる国文科(日本文学科)で、どこにでも開設されているという状況にはまだまだなっていないと思う。いわんや中学・高校においてをや。一方で、日本近世文学会が行っている「くずし字出前授業」では、実際の和本を見せながら講義することが多いが、生徒はかなりそれに食いついてくるようだ。『源氏物語』研究においても、書誌学的観点から提言を行ってきた佐々木孝浩さんの「大島本」論が、大島本の従来の評価を大きく揺るがしている。
その佐々木さんが中心となって企画編集した本号は、徹底的に古筆鑑定にこだわった特集である。
上田秋成にも、古筆鑑定にまつわる話が『胆大小心録』などにあり、江戸時代の人々の古筆への関心が並々ならぬことの一例となっているが、今回は、江戸時代の話が多く(その割に近世文学研究者の執筆がなかったのは、やはり近世文学研究が版本中心で、古筆を材料にすることがあまりないからか)、非常に興味深く読ませていただいている。
とくに佐々木さんの「文化としての古筆鑑定」という考え方に納得させられた。たとえ、それが真筆ではなくとも、「伝〇〇」とされていることは、鑑定者が江戸時代の人であれば、江戸時代における鑑定に何からの価値があるということにほかならず、それを示すことは真贋を明らかにすることとはまた別の意義があるというのだ。また、伝承筆者を基準にすることで、古筆切の研究(分類や識別)の大きな助けになるという。また古筆見の立場からすれば、彼らは「わからない」とは言えず、ともあれ誰かの筆跡に比定しなければならない。つまり、噓をつく宿命を担わされている。とはいえ、まったくの出鱈目で古筆家が何百年も続くわけがないので、そのように鑑定されたことには何らかの意味がある。それを考えるのが、古筆鑑定研究の大きな意義なのである。
慶應義塾大学に寄贈された「古筆本家関係資料」の調査研究を元に、古筆見の活動と鑑定書についての検討の必要性を痛感されて、本書の企画が成ったという。
佐々木さんの論考は、その趣旨に基づき、西鶴の浮世草子作品に出てくる「古筆」を検討し、この時代の古筆文化を鮮やかに浮き彫りにした。これは、文学作品研究の立場からはなかなか発想できないことだが、たしかに『好色一代男』の主人公世之介が、古筆切を材料にした紙羽織を着ていること、長崎丸山の遊女が、定家真筆の、世に知られていない古筆切六枚を張り込んだ屏風を持っていたことなど、この時代の文化を考えるのに貴重な描写である。
また中村健太郎氏の諸稿はじつに貴重である。そのタイトルを挙げていけば明らかだろう。「古筆家歴代について」「古筆鑑定書の形式と種類」「古筆鑑定文書の「琴山」印について」「古筆本家歴代および極印一覧」。圧巻である。「琴山」印は、私などでもよく見るものだが、それが五種類もあるとは。
ともあれ、古筆切に関わる研究をやっている人は必携である。
2025年02月28日
2025年02月26日
本の江戸文化講義
『本の江戸文化講義ー蔦屋重三郎と本屋の時代』(角川書店、2025年1月)は、大河ドラマ「べらぼう」の考証を担当している鈴木俊幸さんの「近世文学」という授業を書籍化したものである。コロナ禍の時期に、オンデマンドで配信した講義原稿を基にしたもの。原稿は文字テキストだが、文章は講義調としているため、実際の講義の文字起こしのようで臨場感があるのが不思議である。鈴木さんが、ちょっと斜に構えた口ぶりで大勢の学生を前に楽しそうに授業している絵が浮かんでしまうのである。
「近世文学」という授業は、「文学史」いや「文芸史」として構想されているが、 ここには、『奥の細道』も『雨月物語』も出てこない。そもそも、著名作家の著名作品をつないだものは「文学史」でもなんでもないと鈴木さんは説く。
本というモノを手に取り、その流通を明らかにすることで、江戸の文化にせまる。取り上げられる本もこれまで取り上げられることもなかった、ありふれた本であり、その本を扱う本屋や、読者も、これまで誰も光を当てなかった人である。そのような視点で、「諸問題」的な論じ方ではなく、「史」として構成し、しかも学生にも面白く、分かりやすく叙述していくのはまさに名人芸である(ちなみに、本の中での自著紹介の際に、「名論文」とか「傑作」とか「名著」とか言ってたりするのだが、その通りなので突っ込みようがない)。
鈴木さんは長いこと自身の科研費で『書籍文化史』という研究誌を出しておられたが、この授業は、江戸時代のイメージを一新させる「書籍文化史」だと言えるだろう。
鈴木さんの近世観は、第一章に示されている。私の見るところ、鈴木さんの文学史の捉え方は中野三敏先生の考え方とかなり近い。これは、鈴木さんが中野先生に影響されたということもあるだろうが、江戸時代の本をたくさんみることを基盤にして、文学史を見ていくと自ずからそうなるのだ、とも考えられる。活字化された本文ではなく、本というモノをたくさん扱って、江戸時代の文化を実感すること、それなくして江戸時代文芸史は語れないことを、改めて確信させる。
本書が他の追随を許さないのは、第四章以降である(ちなみに第四章は蔦屋重三郎が主役)。長年の調査研究で、鈴木さんが気づき、考えたことを起点に、鈴木さんにしか書けない具体例を紹介しながら、各章が構築されている。いわゆる名も無い普通に人々の「文学」的営為を掘り起こし、鮮やかに蘇らせる。これまで、鈴木さんのいくつかの本で読んできた内容が、「史」として繋げられていく。その中には、「日本史の常識」をくつがえすような見解が少なくない。たとえば、「出版統制」は守られていないからこそ何度も御触れが出るのだとか、「寛政異学の禁」については幕臣が試験をうけるための基準を示したものだとか、実際はこのようなものだという説明は説得力がある。
本書の中には、本文をあげて、じっくり注釈的鑑賞的に説明するもの見られる。『好色一代男』の冒頭部であったり、洒落本『傾城買四十八手』「しっぽりとした手」であったり。これらの作品は、私も授業でやったことがあり、大体同じことを言っていたので安心した。もっとも『好色一代男』とその追随作の好色本については、「文学」史上ではなく、出版史上の意義をもっと考えるべきことが主張され、「本替」という独特な商慣習により、好色本が本屋に利をもたらしたことが、丁寧に説明されるあたりは、なるほどとうなずくばかりである。
もちろん、この本が「近世文学史」(ちなみに鈴木さんは「文学」という言葉を使わない。どちらかといえば「文芸」だというのも、中野先生と同じ)の標準になるかといわれれば、それは違うだろう。あくまでこれは鈴木文学(芸)史であり、唯一無二のものである。この本を教科書にして授業を組み立てるのは、鈴木さんなみの知識のある方でなければ、相当な勇気が必要になるだろう。
2025年02月16日
歌川国芳展
大阪中之島美術館で2月24日(月・休)まで開かれている歌川国芳展。かなり大規模な展示で、前後期合わせて400点以上がリストに掲載されている。図録も非常に充実している。解説は一流の執筆陣の分担執筆である。
さて、今回、私にとって最大の収穫は「古猫妙術説」という戯画である。
佚斎樗山の初作の寓言短編集『田舎荘子』、その中でも特に著名な「猫の妙術」という話が典拠である。
私が最近出した『仮名読物史の十八世紀』の第一部第一章が樗山の作品を扱っている。『田舎荘子』は浮世草子に代わる画期的な江戸産の仮名読物であり、戯作であった。中でも「猫の妙術」はなかなか痛快かつ含蓄のある話である。勝軒という剣術師の家にすばしこい鼠がいて、なかなか捕まえられない。鼠を取るのが得意な猫たちが集められ、次々に鼠を捕ろうとするのだがことごとく失敗。最後に、どんよりした老猫が出てきて、見事(ほとんどなにもしないで)鼠を仕留めてしまう。この老猫の妙術に感心した他の猫たちが拝聴するという話で、剣術の奥義の寓話となっている。この話だけ『田舎荘子』から抜き出した写本が流通していたようで、わかりやすい剣術書として読まれていたようである。夏目漱石もこの本を読んでいたことは、漱石文庫に蔵められているので確実である。『吾輩は猫である』に何かヒントを与えたという可能性もある(重松泰雄)。それをモチーフにした絵を国芳が描いていたとは!
この老猫、別に大きいとは書いていないのだが、国芳は大きく描いていて、なにやら秘伝書らしきものを持っているのは、視覚的にわかりやすい。この1点のためだけに図録を買う価値があった。図録は個々の作品解説だけだが、それが非常に充実しているのが素晴らしい。
さて、今回、私にとって最大の収穫は「古猫妙術説」という戯画である。
佚斎樗山の初作の寓言短編集『田舎荘子』、その中でも特に著名な「猫の妙術」という話が典拠である。
私が最近出した『仮名読物史の十八世紀』の第一部第一章が樗山の作品を扱っている。『田舎荘子』は浮世草子に代わる画期的な江戸産の仮名読物であり、戯作であった。中でも「猫の妙術」はなかなか痛快かつ含蓄のある話である。勝軒という剣術師の家にすばしこい鼠がいて、なかなか捕まえられない。鼠を取るのが得意な猫たちが集められ、次々に鼠を捕ろうとするのだがことごとく失敗。最後に、どんよりした老猫が出てきて、見事(ほとんどなにもしないで)鼠を仕留めてしまう。この老猫の妙術に感心した他の猫たちが拝聴するという話で、剣術の奥義の寓話となっている。この話だけ『田舎荘子』から抜き出した写本が流通していたようで、わかりやすい剣術書として読まれていたようである。夏目漱石もこの本を読んでいたことは、漱石文庫に蔵められているので確実である。『吾輩は猫である』に何かヒントを与えたという可能性もある(重松泰雄)。それをモチーフにした絵を国芳が描いていたとは!
この老猫、別に大きいとは書いていないのだが、国芳は大きく描いていて、なにやら秘伝書らしきものを持っているのは、視覚的にわかりやすい。この1点のためだけに図録を買う価値があった。図録は個々の作品解説だけだが、それが非常に充実しているのが素晴らしい。