3月8日は京都近世小説研究会に対面参加。今回は、田中則雄さんと、大谷雅夫さんの豪華二本立て発表ということで、対面だけで20人、オンラインを入れると40人ちかくが参加したようである。
期待に違わず面白かった。発表内容はいずれ活字化されると思うので、ここであまりに具体的に言及するのは控えるが、なぜ面白かったかを述べておきたい。もとより、私の個人的備忘を、公開するという意味合いである。
田中則雄さんの「読本『玉掻頭』に関する諸問題」は、あまり知られていない文化九年(1812)の読本を分析したものだが、例によって、複雑な構造を持ちながら、破綻なく作られている読本のひとつを事例に、「読本」というジャンルへの根本的考察がなされたものである。タイトルは地味なのだが、大きな構想があったのだ。発表後の感想戦の一部を紹介するのがわかりやすいだろう。記憶によるから、完全復元ではない。イメージと考えてください。
Hさん「いやあ、読本研究者ってほんとすごいな。あの複雑なストーリーをよく咀嚼してなあ」
田中さん「読本作者って、どうやって作ってるんですかね。どんなマイナー作者でも、複雑な構成を破綻無く収束させるんですよ」
散人「なんか、職人的なスキルがあるんかね。今日の話だと、複数のユニットの高度な連携みたいな」
田中さん「同じ話が歌舞伎になると、高度な連携がなくなる」
Hさん「歌舞伎やったら台帳読んでもおもろないけど、舞台でみたら面白いというのがあって」
散人「パフォーマンスがあることで、面白くなるんですね」
田中さん「実録はまた、「筋を通す」ことが大事だから、また違う」
散人「合巻は絵が主体やから、絵を見て理解する・・・。同じ話でも、そもそも受容のあり方が違うんやね」
こんな具合で、同じ話柄のジャンル別の違いというのは、単にテクストレベルの比較だけでは済まされないということが実感できた。
もっとも、田中さんの今回の発表は、「読本とは何か」に関わるデカい構想があった。それは、「読本とは何か」についての有力なある見解に対する異論でもあるようにおもったが、それは奥ゆかしくも言表しなかった。これも懇親会で追究してみたのだが、それに対する答えは・・・・。
そして大谷雅夫さんの発表は、「西鶴と仁斎」。ちかく某学会(日本文学関係ではない)でパネリストとして発表されるネタを、「専門の方の意見をききたいので」ということで、発表された。西鶴の作品のどこがすごいかっていうのは、いろいろな視点があると思うが、大谷さんが指摘するのは、ちょっとしたことで、おもわぬ心移りをして、置き引きしたり、色恋に墜ちるような人心のならいを、実に巧みに描いているということ。それは団水や其磧が同じような場面を描いているところと比較すると明らかになる。それと仁斎の当時としてはユニークな言説を比較してみたところ・・・・。
なるほど、「世の人心」とはそういうことか、と改めてそれを引き抜いてくる眼力に感服したのだが、ポイントはそれが現代人にもある普遍的なものだということで、そういうところを核として話をつくることは、当時としてたしかにかなり凄いことである。一方、仁斎の言説は、確かに西鶴文芸のあたかも解説をしているように読めるから不思議である。
より詳細に紹介したいところだが、これくらいにしておく。ただ、仁斎の言説が、熊沢蕃山・荻生徂徠・ョ山陽にまで流れ込んでいることも示され、学派を超えた「思想史」の構想として、文学をもとりこんだ見取り図を想定したくなるような発表だった。
「仁斎」を起点とする思想史の可能性。それが大谷さんの次の著作の構想なのだろう、それを期待したい。