一戸渉「儒医山本封山の読書と和歌と ー『読書室筆記』研究序説 」(『斯道文庫論集』59号、2025年3月)が、慶應義塾大学学術情報リポジトリ(KOARA)で公開されている。これは上田秋成および『雨月物語』研究にとって、画期的とも言ってよい発見を含んでいるので、ここで紹介しておく。この論文は、タイトル通り山本封山の日記である『読書室筆記』の内容ーとくに読書記録と国学の学びを中心に紹介・考察したものである。
とりわけ(前期)読本研究にとって重要なのは、秋成の『雨月物語』と伊丹椿園の『両剣奇遇』の読書記録があることである。刊行とほぼ同時期に、どんな読者が前期読本を読んだかが明らかになるのであり、これは画期的と言える。
『雨月物語』が刊行されたのは、刊記によれば安永五年四月。『読書室筆記』の安永五年八月二十二日に、封山は『雨月物語』を読んだことを記している。刊記からわずか四ヶ月である。残念ながら感想は記されていないが、これはこれまでわかっている限り、最も早い『雨月物語』読書記録である。また安永七年十一月二十四日には、伊丹椿園の『両剣奇遇』を読んだことが書かれている。これは安永八年の刊記を持つ同書よりも早いが、一戸さんのいうように、刊記より以前に売り広められることは珍しくないので(今でも雑誌などで五月号を四月には発売するってことはよくある)、怪しむには足りないが、これまた刊行直後に読んでいるわけである。一戸さんによると、封山は、『雨月物語』読書以後、中国小説類にも興味を示し、『夷堅志』などには「奇怪多々」と珍しく感想を記していることから、『雨月物語』から中国小説への関心の道筋を想定している。これは従来の多くの研究者の想定とは逆なのだが、封山の読書記録は、このような道筋をたどった読書人の存在を明らかにしたわけである。
なお、安永七年五月に、人を介して秋成の歌文が封山に送られたことも、『読書室筆記』からわかるということも一戸さんは指摘している。他にも真淵学に関わる読書歴など、本論文に教えられることは多いが、今回は秋成と『雨月物語』との関わりについてのみ触れた。論文はかなりの長文だが、興味のあるかたは、リンクから閲覧して下さい。
2025年04月27日
2025年04月26日
『大学改革』(中公新書)
竹中亨著『大学改革』(中公新書、2024年11月)を読んだ。大学を退職した私がなんでそんな本を読んだか。竹中さんをよく知っているハイデルベルク大学の先生が偶々来日しておられて、教えてくださったのみならず、わざわざポケットマネーで買って私に下さったのである。いわゆる法人化以後の大学について、わかりやすく書いているし、ドイツとの違いもわかりやすいから、というのである。
竹中さんは、大阪大学文学研究科の西洋史(ドイツ史)の教授でいらっしゃったが、大学改革支援・学位授与機構の教授に転任された。私と年齢が近いと思っていたが、奥付の著者紹介によれば一つ年上のようだ。あまりお話したことはなかったのだが、多分、転出される1年くらい前に、たまたま食堂で昼食を一緒にしていたときに、研究資料や情報の整理の話になり、竹中さんはスキャナーを使って整理をしているということで、そのノウハウを詳細に教えてくださったのみならず、私の研究室に来てみる?と誘って下さり、いろいろ具体的に伝受をしてくださったのだ。そのあまりの見事さは、感動ものだった。そして、私が真似できるものではなかった・・・。しばらくして、会った時に、「資料整理、進んでますか?」と聞かれて、「いや、それがいろいろ忙しくて」と言い訳したのだが、多分、この人だめだな、と見抜かれていたに違いない(笑)。
そういうこともあって、この本を読むと、竹中さんの声が聞こえるようで、すらすらと読める。いや、そうではない。実は文章が明快で論理的なので、実に読みやすいのである。日本の大学法人化をグローバルな視点で大学史に位置づけるのは、さすが歴史家だと思う。
日本の大学と文科省の間には相互不信があり、そのことが本来の法人化のあるべき姿とほど遠い現実を生んだという分析は、竹中さんが大学にも長く在籍していたからこそ説得力をもつ。大学は、古き良き「学者の共和国」から、公的サービス機関に変わっている。ここを認められなければ大学人としてやっていくことは不可能である。
ところで、新書の副題に「自律するドイツ、つまずく日本」とあって、帯には日本とドイツが「明暗を分けた」としているが、本書を読むと、決してドイツの大学改革を持ち上げているわけではない。この副題と帯はちょっと誤解を与えかねない。日本の大学改革以後の状況が、世界の中では特異であることを示すのに、竹中さんがよく知っているドイツを例に挙げているに過ぎない。ドイツもまた試行錯誤しているし、大学教員は大変である。
本書から「切り抜き」という批判覚悟で、2点あげておこう。
1ドイツの教授任用について
内部任用の禁止。教授任用は必ず外部からに限るという原則。
そもそも、空いたポストについて、それを引き続き埋められるかは参事会の承認が必要。
選考主体はその都度組織される人事委員会で10名程度。人事は必ず国際公募。学外からも1、2名加わる。
書類選考をへて数名に絞られた本選考では、面接・抱負の開陳・講演・模擬授業などを行う。
最終候補リストの作成。推薦順位をつけて3名ほど。
教授会・参事会で審議され、最終的には学長が判断。推薦された候補者全員が×なら人事は振り出しに。
任用が確定するまでには、俸給・手当・研究室予算・秘書の数など折衝。
ちなみに有力大学の教授に招聘されるには、最低3冊の著書が必要。1冊は博士論文、次は教授資格論文で博士論文とは違うテーマで書かなければならない。3冊めは巨視的なテーマを扱った著書。それぞれ数百頁程度の専門書。
2 政府の大学管理の日独比較
日本の場合はお馴染み、中期目標・中期計画。目標が達成されたかを事後チェック。
ドイツの場合は目標管理方式という点は同じだが、業務協定という形になる(ドイツのみならずヨーロッパでは7カ国、ほかにもオーストラリア・カナダなど)。業務協定のありかたは、ゆるやか。数値目標は多くない。そして日本の「中期計画」にあたる取り組み方については不問。また総花的ではなく選択的。重点的なものを選んであげる。また成果検証もゆるやか。とはいえ、事業報告書は毎年、百頁くらいにわたって具体的に数値をあげつつ為される。その自律的な空気をつくる厳格な学内規律がある。ここは本書を実際に読んでいただきたい。
いずれにせよ、日本の場合、研究教育の運営が大学の裁量に任されるという理念のもと行われた法人化によって、逆に大学の統制が強くなってしまったという状況が生まれているという指摘もある。
大学に関心のある一般の人たち、あるいは我々大学に関わっている者も、実は大学の運営や文科省のやり方をあまり知らず、イメージで決めつけてしまっていることが往々にしてある。大学に対するさまざまな誤解もあるだろう。とりあえず、本書は大学改革の現状を知るための道しるべになる、奇をてらうところのない、読みやすく分かりやすい本である。
竹中さんは、大阪大学文学研究科の西洋史(ドイツ史)の教授でいらっしゃったが、大学改革支援・学位授与機構の教授に転任された。私と年齢が近いと思っていたが、奥付の著者紹介によれば一つ年上のようだ。あまりお話したことはなかったのだが、多分、転出される1年くらい前に、たまたま食堂で昼食を一緒にしていたときに、研究資料や情報の整理の話になり、竹中さんはスキャナーを使って整理をしているということで、そのノウハウを詳細に教えてくださったのみならず、私の研究室に来てみる?と誘って下さり、いろいろ具体的に伝受をしてくださったのだ。そのあまりの見事さは、感動ものだった。そして、私が真似できるものではなかった・・・。しばらくして、会った時に、「資料整理、進んでますか?」と聞かれて、「いや、それがいろいろ忙しくて」と言い訳したのだが、多分、この人だめだな、と見抜かれていたに違いない(笑)。
そういうこともあって、この本を読むと、竹中さんの声が聞こえるようで、すらすらと読める。いや、そうではない。実は文章が明快で論理的なので、実に読みやすいのである。日本の大学法人化をグローバルな視点で大学史に位置づけるのは、さすが歴史家だと思う。
日本の大学と文科省の間には相互不信があり、そのことが本来の法人化のあるべき姿とほど遠い現実を生んだという分析は、竹中さんが大学にも長く在籍していたからこそ説得力をもつ。大学は、古き良き「学者の共和国」から、公的サービス機関に変わっている。ここを認められなければ大学人としてやっていくことは不可能である。
ところで、新書の副題に「自律するドイツ、つまずく日本」とあって、帯には日本とドイツが「明暗を分けた」としているが、本書を読むと、決してドイツの大学改革を持ち上げているわけではない。この副題と帯はちょっと誤解を与えかねない。日本の大学改革以後の状況が、世界の中では特異であることを示すのに、竹中さんがよく知っているドイツを例に挙げているに過ぎない。ドイツもまた試行錯誤しているし、大学教員は大変である。
本書から「切り抜き」という批判覚悟で、2点あげておこう。
1ドイツの教授任用について
内部任用の禁止。教授任用は必ず外部からに限るという原則。
そもそも、空いたポストについて、それを引き続き埋められるかは参事会の承認が必要。
選考主体はその都度組織される人事委員会で10名程度。人事は必ず国際公募。学外からも1、2名加わる。
書類選考をへて数名に絞られた本選考では、面接・抱負の開陳・講演・模擬授業などを行う。
最終候補リストの作成。推薦順位をつけて3名ほど。
教授会・参事会で審議され、最終的には学長が判断。推薦された候補者全員が×なら人事は振り出しに。
任用が確定するまでには、俸給・手当・研究室予算・秘書の数など折衝。
ちなみに有力大学の教授に招聘されるには、最低3冊の著書が必要。1冊は博士論文、次は教授資格論文で博士論文とは違うテーマで書かなければならない。3冊めは巨視的なテーマを扱った著書。それぞれ数百頁程度の専門書。
2 政府の大学管理の日独比較
日本の場合はお馴染み、中期目標・中期計画。目標が達成されたかを事後チェック。
ドイツの場合は目標管理方式という点は同じだが、業務協定という形になる(ドイツのみならずヨーロッパでは7カ国、ほかにもオーストラリア・カナダなど)。業務協定のありかたは、ゆるやか。数値目標は多くない。そして日本の「中期計画」にあたる取り組み方については不問。また総花的ではなく選択的。重点的なものを選んであげる。また成果検証もゆるやか。とはいえ、事業報告書は毎年、百頁くらいにわたって具体的に数値をあげつつ為される。その自律的な空気をつくる厳格な学内規律がある。ここは本書を実際に読んでいただきたい。
いずれにせよ、日本の場合、研究教育の運営が大学の裁量に任されるという理念のもと行われた法人化によって、逆に大学の統制が強くなってしまったという状況が生まれているという指摘もある。
大学に関心のある一般の人たち、あるいは我々大学に関わっている者も、実は大学の運営や文科省のやり方をあまり知らず、イメージで決めつけてしまっていることが往々にしてある。大学に対するさまざまな誤解もあるだろう。とりあえず、本書は大学改革の現状を知るための道しるべになる、奇をてらうところのない、読みやすく分かりやすい本である。
2025年04月22日
山東京伝研究
有澤知世さんの『山東京伝研究ー考証・意匠・戯作』(ぺりかん社、2025年2月)は、たまたまであろうが、時宜を得た出版となった。もちろん大河ドラマ「べらぼう」のことである。京伝は、今後「べらぼう」でも重要な位置を占めるキャラクターとなるだろう。『山東京伝全集』を刊行中の出版社から出すのもよい選択である。そして表紙がよく出来ていて、本屋に平積みしたいと思わせるものがある。つまり京伝の肖像を大きく使っていて映える。ついでに言えば本体価格を5000円台に抑えたのは、科研出版助成もあるが、やはり一定の売り上げを期待されてのことあろう。
私の先師の主著は『戯作研究』だった。それを意識しているか否かはわからないが、山東京伝を研究したから「山東京伝研究」だという、オーソドックな命名には矜持も感じられる。図書館から選書されやすい書名でもある。
その切り口は副題に示されている。「考証」「意匠」「戯作」は、一見つながりが直ぐには感得できない。「あとがき」にも書かれているように、有澤さんは私の教え子であり、私も本書所収論文の初稿は、当然読んできたが、さて、これを一書にまとめる時には、どういう配列になるのか、どう一書としての体裁を整えるのかな、と思っていた。しかし、序文と結語がついたことで、一書として整ったと感じた。「雅俗にわたる営為を総合的に論じ、十九世紀の江戸という都市空間に生きた文化人・岩瀬醒の営為として、捉えなおす」(序)。それを京伝の新たな評価につなげたいというこことである。
それが鮮やかに示された、と絶賛するには元指導教員として若干の躊躇いもあるが、三十代半ば(著者紹介に生年が書いているのでこれ書いてもいいよね?)で、これだけの本数の論文を書き、これをまとめて一定の「新たな京伝像」を提起したのは、大いに評価できる。
「営為」という点に帰趨する研究は、戯作研究の場合結構重要だろう。伝記ではなく、論文集でそれをやることが、戯作者を代表する京伝を対象とするからこそ意義を持ってくる。そこは試行錯誤の苦しみが反映してもいる。そして国文研で研究者と実作者とをむすぶ「ないじぇる」という仕事を経験したことが、活かされていることを感じる。
京伝について、私は洒落本『傾城買四十八手』を学生の頃読んで、なんという素晴らしい男女の会話のやりとりの描写だろうと思った。一種の類型を描いているのに、リアリティがものすごい。今の学生が読んでも、この作品にはぐっと入り込めるようなのだ。さらに黄表紙『御存商売物』の知的な面白さに痺れた。京伝を研究している人は、様々な作品を入口にして京伝に魅せられ、京伝研究をやりはじめるのだろうが、この面白さ、趣向の卓抜さは天才としか言えず、研究対象として近づけないな、というのが私の素朴な京伝観である。私のような、センスなしにはとても手が出ないなと思ったものだ。だから、京伝研究者は結構プレッシャーを感じつつ、京伝を読んでいるのだろうな、と勝手に想像するのである。
本書が、晩年の京伝の営為を、歴史的(文化史的)に位置づけることを目指しているとすれば、その文脈についての知見をさらに深めるとともに、京伝の文事とは結局なんだったのか、その評価を意識して、次の段階へと進んでほしい。
私の先師の主著は『戯作研究』だった。それを意識しているか否かはわからないが、山東京伝を研究したから「山東京伝研究」だという、オーソドックな命名には矜持も感じられる。図書館から選書されやすい書名でもある。
その切り口は副題に示されている。「考証」「意匠」「戯作」は、一見つながりが直ぐには感得できない。「あとがき」にも書かれているように、有澤さんは私の教え子であり、私も本書所収論文の初稿は、当然読んできたが、さて、これを一書にまとめる時には、どういう配列になるのか、どう一書としての体裁を整えるのかな、と思っていた。しかし、序文と結語がついたことで、一書として整ったと感じた。「雅俗にわたる営為を総合的に論じ、十九世紀の江戸という都市空間に生きた文化人・岩瀬醒の営為として、捉えなおす」(序)。それを京伝の新たな評価につなげたいというこことである。
それが鮮やかに示された、と絶賛するには元指導教員として若干の躊躇いもあるが、三十代半ば(著者紹介に生年が書いているのでこれ書いてもいいよね?)で、これだけの本数の論文を書き、これをまとめて一定の「新たな京伝像」を提起したのは、大いに評価できる。
「営為」という点に帰趨する研究は、戯作研究の場合結構重要だろう。伝記ではなく、論文集でそれをやることが、戯作者を代表する京伝を対象とするからこそ意義を持ってくる。そこは試行錯誤の苦しみが反映してもいる。そして国文研で研究者と実作者とをむすぶ「ないじぇる」という仕事を経験したことが、活かされていることを感じる。
京伝について、私は洒落本『傾城買四十八手』を学生の頃読んで、なんという素晴らしい男女の会話のやりとりの描写だろうと思った。一種の類型を描いているのに、リアリティがものすごい。今の学生が読んでも、この作品にはぐっと入り込めるようなのだ。さらに黄表紙『御存商売物』の知的な面白さに痺れた。京伝を研究している人は、様々な作品を入口にして京伝に魅せられ、京伝研究をやりはじめるのだろうが、この面白さ、趣向の卓抜さは天才としか言えず、研究対象として近づけないな、というのが私の素朴な京伝観である。私のような、センスなしにはとても手が出ないなと思ったものだ。だから、京伝研究者は結構プレッシャーを感じつつ、京伝を読んでいるのだろうな、と勝手に想像するのである。
本書が、晩年の京伝の営為を、歴史的(文化史的)に位置づけることを目指しているとすれば、その文脈についての知見をさらに深めるとともに、京伝の文事とは結局なんだったのか、その評価を意識して、次の段階へと進んでほしい。
2025年04月19日
名所の誕生
井戸美里編『名所の誕生−「名」を与えられた風景』(思文閣出版、2025年3月)が刊行された。「日本のデジタル文学地図」プロジェクトを進めている我々にとっては、注目すべき論集である。本書は科研の国際共同研究強化による共同研究の成果で、学際的・国際的なメンバーを集めている。
あとがきに、「そもそも「名所」について考えるきっかけになったのは、編者が学部生の頃、千野香織先生の授業で名所絵の成立について「名所」は最初から存在するわけではなく、「名が与えられることによって成立するのだ、と聞いたことであった。「名物」や「名品」なども同様だということに気づかされた瞬間だった」とあるように、そして副題に示されるように「名所」とは「名」を与えられた風景だという考え方で本書は編まれている。美しい!と感嘆する風景に我々は遭遇することがあるが、そこは必ずしも名所ではない。「名もない風景」であることがほとんどだ。そう省みれば、名所の恣意性は明らかである。
我々のプロジェクトでも、名所のイメージ形成について様々な考察を試みてきた。しかし、井戸さんは、まず名所とは何かという根源的な問いをその前提に置いたのである。つまり、「それぞれの土地や場に与えられた「名」の本質とはいったい何なのか。「名」はいつ、誰によって与えられ、「名」あるところ、「名所」となるのか。」「名所が誕生するメカニズムを明らかにする」というのである。
「名」を問題とするからには、名所をどのように言葉で表現するか、またどう絵画化するか(実際の風景を写しているとは限らない)が問題となる。
もちろん、これらの問題意識は、具体的な名所に即して、領域横断的な研究分野からアプローチされる。
井戸さんの論考は「山水と見立ての構造ー琵琶湖が名所になるとき」と題され、今では誰でも疑わない名所である近江の名所ー比叡山と琵琶湖の名所としての成立に、天台座主であり優れた歌人である慈円の存在が重要であることを丁寧に論じている。
実は我々のプロジェクトは、初の試みとして、最近クローズドでの研究会を実施した。これは発表として完成されていなくとも、考え方や構想を仲間内にきいてもらい、十分な質疑応答の時間をとって、互いに刺激を与え合うことを狙ったものだが、ここに井戸さんをゲストとしてお招きした。井戸さんには発表もしていただいたが、質疑応答もアクティヴやっていただき、貴重な指摘を多く受けることができて感謝している。井戸さんの論理的な思考はこの研究会でも見られた。名所研究、あるいは芸文の空間論的研究にタッグを組んでやっていきたいと思う方だった。

あとがきに、「そもそも「名所」について考えるきっかけになったのは、編者が学部生の頃、千野香織先生の授業で名所絵の成立について「名所」は最初から存在するわけではなく、「名が与えられることによって成立するのだ、と聞いたことであった。「名物」や「名品」なども同様だということに気づかされた瞬間だった」とあるように、そして副題に示されるように「名所」とは「名」を与えられた風景だという考え方で本書は編まれている。美しい!と感嘆する風景に我々は遭遇することがあるが、そこは必ずしも名所ではない。「名もない風景」であることがほとんどだ。そう省みれば、名所の恣意性は明らかである。
我々のプロジェクトでも、名所のイメージ形成について様々な考察を試みてきた。しかし、井戸さんは、まず名所とは何かという根源的な問いをその前提に置いたのである。つまり、「それぞれの土地や場に与えられた「名」の本質とはいったい何なのか。「名」はいつ、誰によって与えられ、「名」あるところ、「名所」となるのか。」「名所が誕生するメカニズムを明らかにする」というのである。
「名」を問題とするからには、名所をどのように言葉で表現するか、またどう絵画化するか(実際の風景を写しているとは限らない)が問題となる。
もちろん、これらの問題意識は、具体的な名所に即して、領域横断的な研究分野からアプローチされる。
井戸さんの論考は「山水と見立ての構造ー琵琶湖が名所になるとき」と題され、今では誰でも疑わない名所である近江の名所ー比叡山と琵琶湖の名所としての成立に、天台座主であり優れた歌人である慈円の存在が重要であることを丁寧に論じている。
実は我々のプロジェクトは、初の試みとして、最近クローズドでの研究会を実施した。これは発表として完成されていなくとも、考え方や構想を仲間内にきいてもらい、十分な質疑応答の時間をとって、互いに刺激を与え合うことを狙ったものだが、ここに井戸さんをゲストとしてお招きした。井戸さんには発表もしていただいたが、質疑応答もアクティヴやっていただき、貴重な指摘を多く受けることができて感謝している。井戸さんの論理的な思考はこの研究会でも見られた。名所研究、あるいは芸文の空間論的研究にタッグを組んでやっていきたいと思う方だった。

2025年04月15日
長谷川強先生(かがみ55号)
『かがみ』55号(大東急記念文庫、2025年3月)は、「長谷川強先生追悼文集」として、11名の方の追悼文を掲載する。並びは五十音順のようで、井上和人・岡雅彦・岡崎久司・倉員正江・鈴木淳・長友千代治・花田富二夫・深沢眞二・藤原英城・宮崎修多・村木敬子の各氏が、長谷川先生との思い出を語っている。なかでも宮崎修多さんの文章は、彼が私の畏敬する後輩であることもあるが、長谷川先生との思い出を通して彼自身の青春が垣間見えて興味深い。宮崎さんが国文研に就職したあと、長谷川先生の話をよく聴くことがあった。先生は浮世草子のまぎれもない第一人者でありながら、近世文学のあらゆるジャンルに精通し、彼の専門である漢詩文の論文を送っても、的確な指摘・批評が返ってくるのだと。
同じ国文研の同僚としては岡先生、鈴木淳さん、そして、宮崎君と年齢も近い深沢眞二さんが書いておられる。他は教え子の方、『八文字屋本全集』を共に編集された方、大東急でのご縁の方が書いていらっしゃる。いずれの文章を読んでも、深い敬意を感じ取ることができる。
私は、研究について直接に会話したことはたぶん一度もなく、ご本から学ばせていただいたのである。『浮世草子考証年表』などは、私の「奇談」研究にとっては、座右の書のひとつであった。
とはいえ、強烈なインパクトのある、先生の仮装姿は、目に焼き付いている。1985年、九大で行われた近世文学会。その3次会か4次会(?)でのこと。当時、元県議会議員であった女性が経営するお店で「福岡屋」という変わったお店があった。ステージがあり、お店のスタッフが歌い踊るのはもちろん、客に仮装させて踊らせるのである。もう夜中に近いというのに、何十人もそこにいた。もちろん中野三敏先生が用意された店なのだが、私の記憶では、大谷篤蔵先生もいらっしゃった。そして長谷川先生は、カルメンの音楽に乗って、ソンブレロを被った仮装で踊っておられた。別のステージだが私もズボンを脱いでタイツをはかされ、ピンクレディーのUFOを踊らされた。すべってステージで一度転倒した。また渡辺守邦先生はおてもやんの扮装でこれもよく憶えている。しかし、長谷川先生のソンブレロはかっこよく決まっていた。翌年の春の学会で、その写真を長谷川先生にお渡ししたのが、私の数少ない先生との会話である。
同じ国文研の同僚としては岡先生、鈴木淳さん、そして、宮崎君と年齢も近い深沢眞二さんが書いておられる。他は教え子の方、『八文字屋本全集』を共に編集された方、大東急でのご縁の方が書いていらっしゃる。いずれの文章を読んでも、深い敬意を感じ取ることができる。
私は、研究について直接に会話したことはたぶん一度もなく、ご本から学ばせていただいたのである。『浮世草子考証年表』などは、私の「奇談」研究にとっては、座右の書のひとつであった。
とはいえ、強烈なインパクトのある、先生の仮装姿は、目に焼き付いている。1985年、九大で行われた近世文学会。その3次会か4次会(?)でのこと。当時、元県議会議員であった女性が経営するお店で「福岡屋」という変わったお店があった。ステージがあり、お店のスタッフが歌い踊るのはもちろん、客に仮装させて踊らせるのである。もう夜中に近いというのに、何十人もそこにいた。もちろん中野三敏先生が用意された店なのだが、私の記憶では、大谷篤蔵先生もいらっしゃった。そして長谷川先生は、カルメンの音楽に乗って、ソンブレロを被った仮装で踊っておられた。別のステージだが私もズボンを脱いでタイツをはかされ、ピンクレディーのUFOを踊らされた。すべってステージで一度転倒した。また渡辺守邦先生はおてもやんの扮装でこれもよく憶えている。しかし、長谷川先生のソンブレロはかっこよく決まっていた。翌年の春の学会で、その写真を長谷川先生にお渡ししたのが、私の数少ない先生との会話である。