いや、だんだんと効いてきました。浜田先生のパンチがこの散人にも。
浜田先生が『本朝水滸伝』は叛乱・蜂起の物語だとばかりいうのはおかしいのであって、これも秩序への回帰の物語だと強調されたことは前のエントリーで報告しました。
先生が斬った”『本朝水滸伝』=叛乱・蜂起の物語”という抜き難いイメージのままに、なんと散人自身が、最近刊行されたばかりの『読本事典』で、そのような説明をしていたのでした!
大幅な史実の改竄と虚構化をもって、スケールの大きい、反逆・蜂起の物語として構想された。
ははは。いやこわいな。のんきだな。散人、ご講演の時、そのことをのんきに忘れていたのは、まさしく「知らぬが仏」状態で、それを覚えていたらその場で卒倒していたことでしょうな。物忘れの徳というのか。いや擬古文で書く余裕もございません。完敗でございます。脱帽です。
浜田先生のパンチがだんだん効いてきたというのはそればかりではありません。先生の秩序への回帰論は、単に読本の様式のひとつを述べたものではなく、つまり大高洋司氏の〈読本的枠組〉と同列の枠組を示しただけではなく、もっと大きな、根源的な問題を提示するのです。「秩序への回帰」という団円が、一見「物語ならあたりまえだろう」ということで済まされて、見逃してしまう危険がありますが、そうではないですね。
なぜ「秩序への回帰」で終わるのか。そのことを「秩序への回帰」で終わらないもの、たとえば近松の心中物やらと比べて考えた時に、おそろしく根源的な問題が浮上するような気がします。これは散人が、いやわたしが、いまぼんやりと考えていることに、重要な示唆を与えてくれそうなのです。
たいへんな宿題をいただきました。あらためて感謝申し上げます。
2008年06月23日
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