ひとつ前のエントリーで紹介した科研報告書の論文は興味深いものが少なくないと言いました。
大谷俊太氏「真田幸弘と和歌」は、大名が和歌を詠むことの意味について論じています。これは近世和歌史研究の重大な問題です。
キーワードを並べてみると、「文化的上昇志向」(私流にいえば「雅」への志向)、「(人の)道」、「政教性」、「祝言性」などがあります。和歌を詠むことが、精神的修養であったということをかねてより説いている大谷さんらしい切り口です。
国学者の和歌観などと、どう切り結ぶのか。真田幸弘は最初真淵に添削を受けていたのがのちに日野資枝に入門、それは和歌の歴史における権威に繋がること以上の意味があったのでしょうか。あったというのが大谷さんの立場のようです。
為政者たるものは、人の詠む和歌(によまれた心)によって、人(家臣)の「さかしおろか」を知るのだという古今集仮名序に基づく論理は分かりますが、多分他にもそういう論理を、詠歌だけでなくいろんな営為の規範から探すことができるのだとしたら、やはり、なぜ今になって公家の真似をしてまで詠歌という営為を、近世の大名は選ぶのかということが素朴な疑問です。なぜ和歌でなければならないのか、ということです。権威につながる以外のことがあるのか。
一方では俳諧に興じる大名のことが本報告書でも紹介されていますが、これまた俳諧がステータスを挙げたということでいいのか。大名がやっているからステータスがあがったのか。
誤読か混乱か、収拾がつきませんので、このへんで。誰か「教えてー、くだあさいー」。
2008年07月01日
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