『聯珠詩格』を手に書店を出ようとしたら、出口のところに「図書」8月号が積んであったので、1冊持ち帰りました。
中野三敏先生の「和本教室」第3回。第2回までの、「悲憤慷慨」の口吻がなくなり、本格的に講義の中身に入った感じです。
「和本には身分がある」というタイトルです。その中で、「写本を主とし、板本を従とする評価」について述べられています。
今回、面白かったのは、書物を身分と見立てることで、出版規制の考え方として、写本は身分が高いので敬意を表してその領域に踏み込むことはしないが、板本は身分が低いので、その分を越えようとしたら、規制するという構図で説明されていることです。
これはなるほどと思います。この論理を逆手にとって、規制にひっかりそうなものは写本で流通させるという方法が定着したわけでしょう。
私も最近、秋成の『春雨物語』などで、写本と板本のことを考えたりするので非常にありがたかったです。『春雨物語』は出版文化に対抗する秋成の写本主義・異本主義などという説がありますが、もともと写本の方が、「身分が高い」わけですから、板本のことを問題にする必要もなかったはずで、ちょっと的外れではないかと考えます。
また、春雨物語が出版をめざしていた、という考え方があるとすれば、それは秋成個人レベルではありえないでしょう。
わざわざ「身分の低い」板本を作るために、清書本を何度もつくったのではなく、清書本のそれぞれが、ひとつひとつ、ある文脈(贈与性・記念性など)の中で意味をもっていたと考えられます。
この点については、以前述べたように、「国語と国文学」2008年5月号に書きました。
一般にわれわれは、江戸を「出版文化の時代」ととらえており、江戸文学の研究すなわち板本となった作品の研究ととらえがちなのですが、たとえば堂上の雅文学を考えればすぐわかるように、本来的には、一回きり、一本のみで、書芸術でもある写本の方が、複製である板本よりも価値を持っています。江戸は相変わらず「写本文化の時代」でもあるのです。
板本とその「稿本(写本)」という関係でこそ、板本が優位であるという前提は自明ですが、その場合でも、本当にそうなのかと疑ってかかる必要があるような気がします。その「稿本」がどのような紙に、どのような筆で、どのくらい丁寧に書かれたかということを見定めなければ、本当に稿本なのかどうかは、簡単にいえないと思います。
2008年08月01日
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