2008年09月11日

『日本教育史研究』27号

『日本教育史研究』という雑誌は変わっています。研究論文と書評が載るのですが、論文に対する論評(複数)と、書評に対する著者のコメントが載っているのです。知る限りこういう雑誌は他に知りません。理系にはあるのでしょうか。さて、同誌27号(2008年8月)の巻頭論文、高野秀晴「談義本に見る宝暦期江戸民衆教化の一端―静観房好阿『当世下手談義』『教訓続下手談義』を手がかりに―」に論評を求められていましたが、このたび刊行されました。
 一部を少し引用します。冒頭ではありません。

高野論文は、享保から寛政へかけての教育思想史の叙述の中で「過渡期」と片付けられてきた宝暦期を、この時期一世を風靡した談義本の代表作である『当世下手談義』『続当世下手談義』に注目し、これを丁寧に読みぬくことで位置づけようとしたもので、教育思想史の分野ではおそらく異色の論文であろう。
 近世文学研究と近世教育史研究あるいは近世思想史研究は、お互いにもっと研究を知りあうべきであると、かねてより考えている筆者にとって、近世文学側の先行研究をきちんと押さえている本論文は、それだけでも大きく評価されるべきものである。隣接領域となると、途端に先行研究を探索する方法に不明であるのが常だが、本論文は、実に細かく文学研究側の業績に目配りがなされていて感心した。


 また、

思うに高野氏に限ることではあるまいが、教育史・思想史研究の方では、江戸期の版本・写本そのものを読むということが、やや疎かになっているように見受けられる。江戸時代の文学研究においては、なにがしか本文に触れようとするならば、原本を数種は見て、版本であれば出版地や版元を確認し、摺りの状態から初刷を確定し、あるいは板権の移動を調査することが、少なくとも態度としては基本であろうし、写本であれば料紙や筆跡などを調べて、書かれた状況を推定することから全てが始まる。江戸時代の言説の営為を把握するためには、現実に残されているモノを最も有力な手がかりとすべきである、というのは近世文学研究の立場では常識なのである。談義本を一通り見渡そうとするのならば、どうしても版本自体を見る必要に迫られるはずであり、さらに江戸時代の教育思想史の資料という意味ならば、翻印されていない著述の方がはるかに多いことは言うまでもない。

などとちょっと批判的な言辞も弄しております。原稿用紙7,8枚だったか結構長く書いています。
 
posted by 忘却散人 | Comment(0) | 私の仕事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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