先日(13日)、文学部創立60周年記念講演会で、山崎正和氏が、文学部最大の危機は、専門分化が進んでおり、文学部の中でも、隣の先生が何をやっているのかを知らない、わからないということだと話されていました。「文学部は専門店のあつまり」といわれますからね。
しかし、医学や工学やたぶん経済学においてでさえ、どんなに専門分化が進んでも、他分野の人の発表を聞いてわからないということはないということでした。
ほんとうにそうなのかはともかく、たしかに日本文学を例にとると、専門分化というのはおそろしく進んでいて、日本文学の中の近世文学、その中の浮世草子、その中の西鶴、その中の好色物、その中のとりわけ五人女の研究をやっています、という感じになれば、よくわかる人は数名ってことになりかねません。
和歌だとか漢詩文だとか、前期だとか後期だとか、江戸だとか上方だとか、とにかくどんどん分けられていきます。
先日、近世文学会をリードしていくような立場の方が、「今度の学会発表は、○○さんを除けば、どれも興味が持てないから行かない」とおっしゃったのを聞いてすこしショックを受けました。
もちろんこれは専門分野が違うからということではなく、内容の問題もあるでしょう。しかし、そういえば、午前中は俳諧だからきくのはやめようとか、午後は演劇だから休憩室で話をしようとか、そういうことを聞くことがあります。
これでは、「近世文学会」の意味はありません。たしかに専門はどんどん深まるが、孤立化も進むばかりです。
しかし不思議なことに、それではいけないという雰囲気があまりないような気がする。徹底的に専門的なのがカッコよくて、いろいろなことをやる方が「広いですね」といわれつつ実は軽蔑されているような雰囲気があるような(誤解かなあ)。
一方で、専門性を深める中で、たとえば絵本研究のような、専門を超えた新たな研究も生まれています。
『徒然草』の享受というテーマで、日本史学の立場からは、古文書から読書記録を捜すという発想があるようで、大変面白いのですが、日本文学ではやはり本でみていくのが普通です。
日本史の方では本などというのは、一次資料としては重んじないようで、日常的に接する研究対象の違いにもよるのかもしれませんが、しかし連携という点からみると、そこで連携していく可能性が開かれるのではないでしょうか。
しかし、われわれの活動は、狭い学会や研究会であればあるほど過ごしやすいので、そこに安住してしまい、他分野との共同研究というのをメンドクサ、と思う傾向があります(広域という共同研究を担当した私じしんの反省でもあり)。
隣の先生の研究の話を聞く機会を増やすシステム(山崎氏のいう「社交」)が必要ですが、一方で専門家がよみやすい啓蒙的な本を書いていくことも(それを軽視する風潮があるけれど)必要なのだろうと思います。
2008年09月16日
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