江戸時代の本は外見である程度その内容が推せるというのは、長沢規矩也の言としてわが師中野三敏『江戸の板本』にも引かれるところ、これらは、まがりなりにも江戸時代の本を扱って三十年ほどになる私などにも、少しは感覚がわかるようになってきました。
もちろん、そのように何度も教えられてきたからだともいえるのですが、それなりに(ほんとにそれなりですが)本を見る量が累積しての当然の結果でもありましょう。
また、江戸時代の文芸の研究者であれば、誰もがそのように思っているはずであるわけですが、とはいっても、あるテキストの書誌的なデータを、その内容と結びつけて論じるというものは、あまり多くはみられないようなのです。
むしろ、そのようなスキルを十分もっているにもかかわらず、いざ作品を論じる段になると、たちまちテクスト論っぽくなったり、思想論っぽくなる人が結構いますね。近世的視点と現代的視点が同居し、葛藤しているのです。
とはいえ、こういう研究者のあり方を簡単に「それはだめだ」と切り捨ててはいけないような気がします。その分裂、葛藤に、大きなヒントが隠されているのではないでしょうか。
現代的視点のみの研究は、寒々しいのですが、近世的視点のみの研究というのもまた、そこで明らかにしたことの現代的意義づけを、他者に投げてしまう可能性があるという意味では、寒々しい。
いや、学者のやることはそこまでだといわれるかもしれません。ではなぜ、それを「面白く」書くことが要求され、歓迎されるのでしょうか。「それは何の意味があるの」と問う時、その「意味」とは何でしょうか。
さて、そのような相克の中で、近年、書(芸術)としてのテクストというようなことを私も考えるようになってきたのですが、「江戸文学」39号所載、岩坪充雄「「書の視座」による江戸史料の再考」は、まさにその問題を取り上げています。つまり「江戸文学研究を書道史的視座によって扱う」ことの提案です。書道史的立場から、岩坪氏は「字姿」の問題を取り上げています。
もちろん、私達も「字姿」というものについては漠然と、それが内容に関わるという前提に立っているのですが、「字姿」そのものをテクストの分析に用いることはなかなかありません。ある意味、それは常識的なこととして、わざわざ触れなかったのかもしれない。
しかし、これからはもっと声をあげて言うべきなのかもしれないと思います。隣接領域の人から、江戸時代の文学研究が、「字姿」のようなものを問題にしてこなかった、と見られているとしたらです。
もちろん、秋成についていえば、たとえば晩年に「アダンの筆」で書いたモノがあること、あるいは晩年になるほど字母の数が多くなることなどが問題にされてきました。しかし、たしかに、それが大きく作品論の議論の中心になるということはなかったように思います。
私達は、それらの外見的要素を補助線にして、相変わらず、活字に一元化されたテクストを読むことで、中身の議論ばかりをしてきたのではなかったでしょうか。
しかし、補助線ではなく、もっと正面から論じるべきなのではないでしょうか。もちろん装丁論とか書籍文化論ということではなく、まさにテキストを論じるという意味でです。字姿もテキストだということなのです。
またそれは、コミュニケーション・ツールとしての「文芸」の問題ともかかわると思います。嗚呼、もうすこし明瞭に語る能力を持ちたい・・・。いつもの妄言的所懐です。
2008年11月14日
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