先に触れた「文学」の秋成特集号。ぼちぼち反応も出てきています(閑田子さんのブログや私信などで)。稲田篤信・木越治・長島弘明3氏と私の座談会は、それぞれの秋成へのスタンスが図らずも浮き彫りになったようです。秋成から時代思潮(あるいは時代の空気)を探る稲田氏、あくまで「文学」にこだわる木越氏、伝記研究と作品研究の融合をめざす長島氏、そして文芸史・言説史的に秋成をとらえたい私であります(私のはあまり明瞭ではないか?)。これを評して、さる大家よりたまわりし歌五首のうち二首をご披露します。
懲りずまにおきなに迫るこゝろざし人それぞれに思はくありて
携へて魂に迫ればいと易く躱(かは)し逃るるわたなしおきな
【注】 わたなしおきな…秋成の号のひとつは「無腸」つまり「わたなし」。
さすが、いい得て妙ではないでしょうか。
閑田子さんのブログでも取り上げられているように、『雨月物語』を「奇談」の流れでとらえ、「奇談」の一特色である「寓言」的方法として改めて読んでみたいという私の発言に対し、長島さんから強い批判がなされています。「奇談」は私が近世中期の仮名読物史を構築する際に提唱しているジャンル的カテゴリー概念であり、ある方からもおっしゃっていただいたのですが、本誌巻頭論文の高田衛先生も、「奇談」を既に認められたジャンル概念であるかのように使われています(これは、私にとって非常にありがたいことでした)。また篠原進さんも本誌所収のご論で「奇談」について触れられていますし、浮世草子系怪談や談義本、前期読本あたりの研究者にも、最近ぼちぼち引用される概念になってきました。
ただ、こういう概念は、きちんと批判を受けて、ほんとうにそれが有効な概念であるかどうかを絶えず検証していくことが必要です。座談会の席とはいえ、そういう批判を出していただいたことについて、私は長島さんに感謝しています。これまでさまざまな方から好意的に触れてきていただきましたが、公的な批判は初めてだと思います。ある新説・仮説に対して、批判が公的に出るということは、この世界では非常に少ないことであり、これはほんとうにありがたい。
そして「奇談」というのはあくまで仮設的なジャンル的カテゴリー、あるいは様式、比喩的には器であり(「ジャンル」と言い切るのはまずいと思っています。これまで使ったことがありますが、これはきちんと反省)、これを仮設することで、見通しをよくするという試みだということをもう一度再検討の上、言うべきだと思いました。長島さんの批判は、本屋の分類を過大評価するなというところにありますが、それはまったくそのとおりでありまして私も同意見です。私は本屋の分類を実体的なジャンルとして提唱しようというのではなく、その分類に使われた「奇談」という概念を借用して、この時期の仮名読物を整理することを企図しているのです。このあたりすこしすれ違っていると思いました。ただここは反論を書く場ではないので、ここまでといたします。
ことしは秋成200年祭ですので、このブログでは秋成研究について、このように、いろいろ語りたいと思っています。「文学」所収論文については、続考したいと思います。


ところで、「閑山子さん」の誤り、かと。ではー。