西田耕三氏の「他を欺かんや―『大学』から『こゝろ』まで―」(近畿大学文芸学研究科『渾沌』第6号)は、文藝における虚実論を、方法論としてではなく、倫理(倫理規範)から考究する100枚超の力作評論である。秋成の虚実論を発端に、独庵玄光、妙幢浄慧、林羅山、伊藤仁斎、貝原益軒、皆川淇園、李卓吾、F・ベーコン(これは援用だが)、山片蟠桃、篠崎小竹、太宰春台、海保青陵らの言説から儒仏における「欺く―欺かれる」の言説を探り、忠臣蔵の加古川本蔵心底明かしを論じて、演劇においても心底が倫理規範にさらされているとし、馬琴の『夢想兵衛胡蝶物語』の食言郷(嘘の国)を取り上げて、「く欺く―欺かれる」関係が小説の主題に転じたと読む。それは近代に如何に引き継がれたのか、という問題を『こゝろ』で解き明かす。この『こゝろ』論だけで1編の論文になりうるボリュームである(ちなみに、私が衝撃を受けた出原隆俊さんの「Kの代理としての私」も引用されていたのには驚いた)。
徳川時代の倫理観で『こゝろ』を要約すれば、「上」は、意味あり気に「私」を惑わす先生の姿、「中」は、それに影響されてみずからを先生に似せる「私」、「下」は先生の心底明かしの場における「自欺」の告白の物語にすぎない。(中略)自欺や他欺が行き交う「心」という場が個を超えたところにあると考えた徳川時代の志向がようやく個を超えたところにあると考えた徳川時代の志向がようやく個の内部に納まり始めた過程として『こゝろ』を読めば、むしろ、『こゝろ』は深い伝統を負って存在している作品だということができる。
「明治の精神」は江戸の倫理規範と読んでも構わないと西田氏は言う。ともあれ、読む方もかなりの覚悟を強いられる。西田文藝学の集大成ともいえる評論である。私はもちろん秋成を論じた部分(これがまた一つの論文を成してもよいほどの長さ)に反応せざるを得ない。私は、『文学』1・2月号の座談会で、春雨物語の虚実論を倫理意識から捉えたい旨を発言して、木越治さんから「方法論として考えた方がよいのではないか」と言われた。わたしは同調できず「いややっぱり倫理で」と言っていたわけだが、それはあくまで晩年の意識であって、浮世草子や雨月物語の場合は、むしろ方法的だとそこでもしゃべっている。
西田氏は、浮世草子から倫理意識で考えている。これは論の展開からして当然そのようになる。個人の中での虚実・虚偽の問題意識が変容するという面倒なことを言っていたら江戸から明治への「欺く―欺かれる」という大きな枠組みを論じられない。しかしそればかりではなく、西田氏のように倫理で浮世草子を読んでもたしかに問題はないように見える。しかし、一種の話型として詐欺譚を使う浮世草子と、馬琴とはまた別の仕方で、「偽り」を意識的に主題とする物語である『春雨物語』の「欺く―欺かれる」意識は同じではないと今は思う。いずれ書かねばならない。
2009年05月04日
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