『日本文学』4月号は、大会特集で「共同制作される世界―〈文学の混沌に向き合う〉」。パネリストの生方智子・篠原進・斎藤美奈子の三氏の、発表を元にした論文が載り、それを聞いた三名の方の「大会印象記」を併せて載せる。
〈従来の文学観が溶解していくような現代の状況の中で、それをしっかり認識した上で、私達はどう進むべきかを考えましょう〉的な趣旨の大会テーマのようで(私はこの学会に所属していないので間違っていたらすみません)。
ケータイ小説を読んだことのない(『電車男』は本屋で立ち読みしたことがあるけど)私としては、なにが混沌なのかもよくわからないのだが、どうしても、篠原さんの論文「村上春樹という逆説―浮世草子・寓言・レトリック―」には、ピピっと反応してしまう。そう、「寓言」に。
この論文は、三島事件に無関心な登場人物を造型して、一見非政治的で無害な小説っぽい村上春樹の小説が、政治に関わらないという点で実は政治的なんだという逆説を最初に提示して、江戸時代の八文字屋本という本屋と作者の安全「共同制作」商品に転じ、そういう「共同制作」という制約の中でしたたかに「屈折した思い」(「毒」)を織り込んだのが、西鶴だとし、その方法を「寓言」というキーワードで説明する。用例から、「寓言」とは自分の思いをストレートにではなく何らかのレトリックに託して表現する装置であるとし、それを現代文学も取り入れるべきだと主張しているように読めた。
篠原さんの表明している文学観は、驚くほど典型的な「全共闘世代」的、「団塊の世代」的なものであるが、これは多分戦略的に役割を演じている部分もあるのだろう(パネリストというのは時にそういう面がある)。
文学は反権力的で、反社会的で、文学者はアウトローで空気が読めない存在であることに徹するべきだというように、乱暴にまとめるとなるようである。いや、これは篠原さんが心からそう思っているというのではなく、あくまで戦略的役割的に表明しているのだと、私はとっている。
その解釈の上でいうのだが、江戸時代の読み物、西鶴でも黄表紙でもいいのだが「反権力的」という考え方をあてはめるのは、また(反権力的な意味での)「毒」という言葉をあてはめるのは、かなり無理があると思う。
息子が親父に逆らうように、絶対的な存在に対して「まさか本気で怒らないだろう」と、多少ちょっかいを出してみることはあるが、それは毒でも、反権力的でもない。黄表紙の場合、ちょっとやりすぎたら本気で怒られて、すぐにシュンとしているわけである。もちろんひそかに「諌める」という意味での言説はあるかもしれないが、それはむしろ所与の秩序を乱さないための忠の精神であろう。
「寓言」を、毒や針をオブラートに包むレトリックとして用いるというのは、理屈としては成り立つから、それを現代文学に要望するのは悪くはない。しかし貞享とか元禄のころに実際に寓言をそういう風に駆使した人がいるというのには、私は賛成できない。
ただ、最近西鶴をそのように読む読み方が増えてきている感じがする。主題の復権というべき現象である。それは「ぬけ」とか「寓言」とか「カムフラージュ」とかいう「方法」で、隠匿されているらしいのだが、さてそうなのだろうか。確かに西鶴はわかりにくい。隠された典拠やモデルもこれまで次々に「明らかにされた」。
だが、なぜ西鶴がお上にたてつき、反権力的であらねばならないのか。そこのところがわからない。「人はばけもの」とか「人ほど可愛いものはいない」とかいう以上、政治や社会に関わる事も扱いはするし、それが危ないことになることもあるとはおもうが、それとこれとは別だと思うし、「寓言」を「武器としての笑い」に用いるというのは、それも西鶴がというのは、かなり疑問に、今は思います。
2009年05月11日
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