2010年04月05日

福岡伸一と「妙」

 土曜日のこと、家人が新聞に面白い記事が載っているというので、見たら福岡伸一氏を取材した記事であった。『生物と無生物の間』は私も面白く読んだし、「動的平衡」の考え方をサッカーの岡田監督が好み、対談していたことも新聞で読んだ。さて、どんなことが書かれているのかと見たら、結構面白いことが書かれている。

 たとえば「動的平衡」の考え方は、「方丈記」の「行く河の流れは絶えずして、しかも元の水に…」と同じ認識である。だが科学が進めば、同じ世界観・生命観を、より解像度の高い言葉で語れるようになる。「科学の目的の一つは新しい文体、スタイルで記述することだと思います」というのである。それは限りなく「文学」に近い。『生物と無生物の間』も香りのある文章で書かれていた。

そこで唐突に私は三月の末、有志で行った、西田耕三氏の新著『近世の僧と文学』(ぺりかん社)の書評の会を連想した。そこで話題になった「妙」である。福岡氏のいうのはこれではないか。

「妙は唯人に存す」とは、『近世の僧と文学』の副題であり、妙幢淨慧が頻用する言葉。言語・文字・文章はそれ自体意味を持つものではない、それを用いる人に「妙」があるからこそ、生き生きとした意味を持ってくる。これは西田氏が『人は万物の霊』(森話社)で展開した死活の説に通じるものである。

 たしかに世界を認識・解釈し、それを記述するという点において、科学と文学は共通している。いや、書画や音楽もそうかもしれない。その記述の仕方を「妙」と捉えて主題とした西田耕三氏の慧眼に思いを致す。妙幢淨慧は、若い時に文芸に親しみ、やがて詩のわかれを体験する。それでありながら、言語・文字・文章を用いる「妙」は、あらゆる世界を表現し、あらゆる世界をつくることができるという認識を持ち続けた。

 「妙」とは、「言い得て妙」の「妙」である。西鶴や秋成が、なにを描いたかを考えることも重要だが、文芸研究の本質はたぶん「妙」を指摘することにある。だがその指摘は、箇条書き的に挙げられるわけではない。また単語で答えられるわけでもない。「妙」を指摘するのももまた「妙」なのである。そういう意味で西田耕三は妙幢淨慧その人である。そのようにこの本は読める。

 そういえば妙幢淨慧は、厖大な読書量をもとに引用をしまくった「引用の人」、その引用の記録を読んでそれをまた引用した西田耕三氏もまた「引用の人」。だがその引用に「妙」がある。「妙」はあたり前のことを改めて突き付ける技術だとも言える。たしかに科学というのはそういう側面がある。
posted by 忘却散人 | Comment(0) | TrackBack(0) | 研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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