2010年05月17日

浄瑠璃本のベストセラー

 日本近世文学会で、浄瑠璃本のベストセラーという発表があった。浄瑠璃本(通し本)つまり、浄瑠璃の一部ではなく全部が書かれた台本を、2万3千点以上調査した発表者が、膨大なデータから作品別に残存点数をランキングして、「浄瑠璃本の文学的特性は、18世紀第三四半期(宝暦明和期)の竹本座の「軍記」「時代物」に典型を認めるべきものとする。

 ちなみに1位が忠臣蔵、2位が手習鑑、3位がひらかな盛衰記である。まあこの3つがベストセラーの上位3位であったとしてもそうだろうなと思う。(もっともこの3つは、いずれも18世紀の第二四半期である。そのことを問題にした質問もあった。)

 まことにその調査への執念は驚嘆敬服に値するのだが、ひとつ疑問もあった。それで、二人ほど質問者が出たあとで、手を挙げたのだが、わが師が質問に立ったので、役者がちがうし、司会者もこれで終わりと言われたので、質問をしないままだった。そこでその質問を書きつけておこう。ご本人に伝わるかどうかわからないが。

 残存状況から受容の有り方、あるいは売上数を予測することが出来るのかということである。現在でも膨大な部数を発売している新聞や週刊誌、漫画などは、100年後どれだけ残っているだろうか。近世でいえば1万部売ったという合卷の田舎源氏の揃いなど、現在あったら稀覯本である。残存しているということは、保存し、子孫に伝えるという価値のあるから残存しているという面が多いと考えるべきではないか。売上点数がそのまま残存点数に反映しているとは限らないのではないか。

 そうすると、発表者の示した残存点数ランキングでは、時代物が世話物を圧倒しているわけであるが、子孫に残すとか、教訓になるとか、教養になるという観点からいえば、そうなるのは当然だろうと思うわけである。実際の売上点数では、世話物がもうすこしは上位に来てもいいのではないか、しかし、それらは子孫に残すようなものではなかったから、残存しなかったということはないのだろうか。

 もちろん読み物としては、近世においては、時代物が世話物に勝るものであったろうことは想像できる。しかし、残存点数から「ベストセラー」を云々するのは、もひとつ手続きが必要ではないのだろうか。まあ、こういうことは、誰でも思う疑問だと思うし、それを考慮もしているんだろうけれど、やはり説明は必要だと思う。

 とこういう質問をしたかったわけである。
posted by 忘却散人 | Comment(15) | TrackBack(0) | 研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
統計的処理(統計的真理)には一定の限界はあるものの、データが3〜4千以上であれば、かなり現実の近似値になるだろうと思います。その点、今回の発表は十分にクリアされていました。子孫のためにという意志的な保存と、たまたま保存されただけと、それらのバイアスの差異まで包み込んで、あの報告結果が出てきているのでしょう。また、今回の発表は丸本を平等にデータ収集しています(合巻で同じ調査をし、数があつまれば、様々なバイアスの差異を包み込み、売られた近似値になるでしょう。偽紫の完全本が稀覯なのは、コンプリートした読者が少ない、ということでしょう。端本ならかなりあるでしょう)。実際、世話物の丸本はあまり「売れて」いないのではないかな、と思います。劇を見るのは楽しいが、改めて読む(練習する)程ではない、ということでしょう。今回の発表で僕は、そう考えるべきなのだろうなと思いました。「冥途の飛脚」の初版本がこれまで見つからなかった、というのはそういうことなのだろうと思いました。他方、重要なのは、作品の文学史的インパクト(新機軸を打ち出す、新たなジャンル意識が成立する)は、または普遍的(?少し笑)価値は、「ベストセラー」等の統計的処理からは決して導き出せない、ということです。
僕が一番気になったのは、通し本という言い方でした。仲間ゆきえさんが「まるっとお見通しだ」という時、「まる」の使い方が古典的でかっこいいなと思っていましたので。今は通し本というのですかね。
(川平さんのメールアドレスを知りたくて、氏のブログで見付けられず、こちらへ久しぶりにお邪魔し、書き散らして、すいませんでした。川平さんに、非常につまらないことを、すこし教えていただきたいと思ったのであります。)
6月19日は、オランダ戦より重要な行事があるので、京都に伺います:-)
Posted by 高橋半魚 at 2010年05月18日 13:22
すいません。今、トイレにいって用をたしながら、間違いに気づきました。「冥途の飛脚」を例に出すのはおかしいですね。
ベストセラー云々をいうさい、そもそも出版業がさかんな時期の本なのか、出版不況でもすごく売れたのか、そういう問題はありますよね。元禄期より享保期以降のほうが、そもそも出版点数は多いでしょう(浄瑠璃本の出版点数でなく、出版全体の。つまり本を買う人が多いかどうか。丸本は、後に主流となる抜き本にくらべて当然高い)。絶対数として多い本をベストセラーというのか、不況下でも売れる本が本質的なベストセラーなのか。
あと、世話物がそもそも(時代物ほどには)売れなかったと書きましたが、それは先生のおっしゃる教訓・教養に関する洞察と同様のことを申上げているつもりです。
それと、いま、発表レジュメを見直しています(笑)。資料5の版木別の統計がありますが、7行本で4版まである作品のうち、国姓爺合戦が一位になれないのは、古い時代の作品だからでしょう。3版までの忠臣蔵・菅原・ひらがな盛衰記にくらべ現存点数が少ないのは、おそらく端的に、保存されなかった、ということを意味しているように思います。丸本の版元は幕末近くまで基本的に移動しないし、版木はふつうダメになるまで一定数を摺るはずだからです。
なんだか、最初に言ってたことと、違う展開になってきてしまいました。
Posted by 高橋半魚 at 2010年05月18日 13:51
半魚さん、いろいろコメントありがとうございます。まだ展開があるかな?と思ったのですが…、それはないようで。その難解なご説明をもってしても、私の素朴で単純な疑問(残存点数は売上点数を反映しているのか?)は、きえませんなあ。データが多いとそうなりますか?それとも、世話物は売れなかっただろうという予断を入れての話?どなたか、すっきりとしたご説明をしていただければありがたいのですが。
Posted by 忘却散人 at 2010年05月19日 03:26
いつも楽しく拝見しております。私は全くの専門外ですが近世文学にも興味があり、いろいろな情報をいつも教えていただき感謝しています。

当該の発表、発表者ご本人が版の版元間委譲のこと、用語の問題などについて本としてまとめておられるので、そちらを見ると詳しくわかるのかもしれません。もっとも、発表だけでわからないのもあまりよろしくないことでしょうが。

残存点数とベストセラーの問題、仰るとおりと思います。たとえば漢籍の残存点数と種類を考えたとき、残っているのが「ベストセラー」といえるかと言えば、おそらく微妙でしょうし…
また浄瑠璃の場合、発表者の言う「通し本」(これはやはり、丸本〈院本〉が一般的用語でしょう)のほかに一段だけ抜いて出版している「抜き本」(稽古本です)がありますから、一般の人が浄瑠璃の「稽古をするのに」人気があった作品は何かというようなことを考えるなら、そちらの状況も考慮する必要が出てくると思います。ただ、発表者はそのことも承知しておられるはずです。あくまで「読む」作品として何が大切にされたのかを知りたかったのではないでしょうか。

愚見を長々と書きまして申し訳ありません。
Posted by なみこ at 2010年05月19日 06:39
なみこ様、コメントありがとうございます。「読む」作品として何が大切にされたのか(その結果残存しているのか)ということを、このデータが示しているというのは、まことにその通りでしょうね。「ベストセラー」というのが、一種の比喩的表現であるのであれば、あまりその言葉にこだわる必要はないですね。
ちなみに「丸本」を「通し本」と呼ぶ理由は、発表者の著書『浄瑠璃本史研究』にたしかに解説されています。
Posted by 忘却散人 at 2010年05月19日 07:54
いろいろお騒がせしました^^;。
御納得いかないとのことで、逆にほっとしたですよ。わかりきったことをかいてしまったのかな、などとも後でおもったもので。細かいことは、自分のサイトにも少しかきました。
かわひらさんのメールはかつまたさんに聞きます。オランダ戦の日にお目に掛かります。
Posted by 高橋半魚 at 2010年05月20日 15:44
半魚様。サイトの文章拝見。力作ですね。
Posted by 忘却散人 at 2010年05月20日 22:13
発表者です。小豆島から帰りましたら大変な反響で驚いております。
また半魚様「ベストセラーと統計学的真理」に詳細な検討を(発表者以上に)加えていただいておりますので、要点を絞って補足させていただきます。

まず忘却散人様。
ジャンル毎の残り易さ(例・漢籍)・残り難さ(例・笑い本)があるとは考えましたが、ひとつのジャンル内で、残り易い・残り難いの差が生じるとは取り敢えず考えない/想定しないで論を進めました。
この前提は、時間の都合で省略していましたので、ご不審はごもっともと存じます。
なお「教訓」といえばむしろ世話物の方が、年長者の若者への率直な異見(野崎村・質店・帯屋等々)に充ち満ちているようにも思われます。
またひとつのジャンルの中で、特定の作品が「焚書坑儒」の対象にされたとも考え難い(上演禁止・絶版は別)ので、個々の作品の残存部数に、往時の発行部数、制作点数の反映を認めて良いのでないかと考えたものです。
Posted by 発表者 at 2010年05月21日 03:00
続きまして半魚様。
時間の都合上やむなく割愛しました【資料5】を御覧くださり感謝いたします。
時折みかける「後摺本をよく見かけるのは売れた証拠」という判断の是非を、浄瑠璃本の例で考えてみるつもりで作ったものです。
たしかに板の数の多少で判断するのがもっとも素直だと思うのですが、しかし廿四孝のように、一板で盛衰記四板分・信仰記三板分に匹敵する点数を摺出す事例(摺次の遅い本は読めない位ですが)もあり、一概に板の数の多さ=摺部数の多さとはいえないように考えました。
ひとつの結論が導き出せず、議論が拡散しそうなので端折ったものでした。
Posted by 発表者 at 2010年05月21日 03:23
なみこ様。
地方の人形芝居が「どこそこ文楽」と、(縁も所縁もない)文楽を名乗る理由は、三宅周太郎『文楽の研究』が昭和前半期によく売れたため、と思います。「丸本」の語が一般化するのも、戸板康二『丸本歌舞伎』と無関係かどうか。
文楽(東京・大阪とも)が定式幕を用いる(江戸の歌舞伎の慣習!)など、伝統芸能の世界は、近代東京(歌舞伎)のスタンダードで覆われ尽くされています。

「通本」「抜本」は、発表者の造語でなく、
大坂の浄瑠璃本板元が発行した刊行書目録「浄瑠璃外題目録」に用いられた分類用語です。
Posted by 発表者 at 2010年05月21日 03:39
ふたたび忘却散人様。
中央(大坂・京都・江戸)を離れ、また人形芝居の巡演地でも無い、遠い地方にまで伝播流布した浄瑠璃本は、多くは「読み物」として流通したものと考えます(志布志の山伏の家にあったという鹿児島県「黎明館」の事例は、典型でありましょう)。
半魚様のブログで「出版研究は(中略)社会学、量の学問である」との指摘は、認識を新たにする思いですが、写本が前提の「実録」「軍書」を含めるならば、「受容・読者・受け手の研究は社会学、量の学問である」と言えましょうか(物凄くもっちゃりした言い方になってしまいました)。
例示の「田舎源氏」の現存数が判ると、減少の係数が算出できる!ようにも思うのですが、これはやはり各ジャンルごとでの所在調査をまちたいところです。

最後となりましたが浄瑠璃本の閲覧方、よろしくお願い申し上げます。
Posted by 発表者 at 2010年05月21日 04:08
発表者様。おいで下さりありがとうございます。もとより、この発表が、誰にも真似できない努力の結晶であり、研究史上の金字塔であることは、誰もが認めているところであります。
そして残りやすい・残りにくいという差が生じるととは考えないという前提で論を進めた(その前提は時間の関係で省略した)ということで、私の単純な疑問が生じた理由もはっきりしました。
たしかに世話物は年長者の教訓に満ちていますね。世話物の教訓的な部分であろうと思います。これがなければ世話物は上演・出版はできないかもしれませんよね。しかしストーリーの枠組みからいえば、程度の差こそあれ、主要人物の道を外した行いが描かれている場合が多いわけで、トータルにとらえたとき(丸本ですし)時代物の方が、教養的・教訓的だろうと思うわけです。ノルウェイの森よりも司馬遼太郎というところでしょうか。100年度に残存点数を・・・。まあ、これには当然反論があるでしょうが。
いずれにせよ私のいいかげんな感想に、かくもまじめにおつきあいいただきましたこと、感謝申し上げます。
あと閲覧の件はうかがっています。当日は某財団法人の会議のため不在にしておりますゆえ、失礼いたします。
Posted by 忘却散人 at 2010年05月21日 05:42
発表者様。ご当人のお出ましで、すごくもりあがっていますね。ご解説ありがとうございます。
私もあれこれ書いて、たいへんお恥ずかしいところです。学会的には、只今現在ほとんど死んだ状態でおりますが、興味はあるのです。
御著著で、ちゃんと勉強させていただきます。
Posted by 高橋半魚 at 2010年05月21日 13:33
発表者です。

忘却散人様。ブログで取り上げてくださいまして、皆様から発表の欠を補っていただく機会を得ました。感謝申し上げます。「山高故不貴 以有樹為貴」は、今回の問題設定への戒めと思い至りました。

高橋半魚様。
5月21日追記拝見。板・版は刊、摺・刷は印、の意に用いております。ご指摘から、板でなく、摺次を数えてみると横並びの比較が出来るかな、とも考えましたが、これは「奥付」(後ろ見返しの半丁)を取り替えて増摺する浄瑠璃本だから数えられる・数えやすいので、その他のジャンルでは難しいでしょうか。

今週になって、当日マイクが入っていなかった(マイクを使わない人かと思った)とも伺いました。お聞き苦しい発表だったかと汗顔の至りです。にも関わらず、当日そしてブログで、多くの疑問・ご意見を伺うことが出来ましたことは、望外の喜びです。諸点を再考し、文章化したいと存じます。本当にありがとう存じました。
Posted by 発表者 at 2010年05月23日 02:27
発表者様
刊・印・修、おっしゃるとおりなのですね。この土曜日に御論文「仮名手本忠臣蔵の諸本」(京都語文)をみつけて、読みました。ご研究の精密さ、有効性、改めてよくわかりました。御著書をよませていただくのを、楽しみにしています。
Posted by 高橋半魚 at 2010年05月24日 12:43
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック