高山大毅「「人情」理解と「断章取義」―徂徠学の文芸論―」(「国語国文」2009年8月)を読む。かつて閑山子氏により「新しい風」と称された論文である。久々にスケールの大きい、しかし大雑把ではない、問題提起性の高い若手の論文に出会った。中野三敏先生が「近世に於ける李卓吾受容のあらまし」で、その冒頭に「江戸文化全体の特徴の一つを雅(伝統)・俗(新興)の二元論に求めることは、既に公論と談じてもよかろう」と述べられ、「そうそう、その通り」とうなずいていたところに、ガツンと、いやコツンくらいかもしれないが、一撃をくらったという感じである。
漢詩文や和歌は「雅」、俳諧や戯作は「俗」という文芸領域との対応認識は、漢詩文や和歌研究が軽視されていた時代に、それらの重要性を強調するのには便利であったが、分析概念としての「雅俗」が史料用語としての「雅俗」と直接結びつけられやすく概念上の混乱を招いた代償が大きかったと指摘する。
「人情」についてもそうで、分析上の概念と史料用語としての「人情」が混乱していると述べ、さらに、従来の論者の中には「詩は「人情」を述べたものである」という主張を「自己心情を吐露すべきものである」と区別していない者があることを指摘している。たとえば徂徠は、詩は古代の人の人情をよく表していると考えるが、個人の心情表現が重要だとは述べていないと注意を喚起する。つまり〈徂徠は「個性」を尊重し、自我を肯定した〉という理解に対して異を唱えているのである。さらに朱子の「勧善懲悪」説にも正しい理解を促す。さて、高山氏は徂徠の『論語徴』を読み込み、徂徠の文芸論を整理してゆく。徂徠の好む「断章取義」(古典・故事の引用と転用)に注目し、徂徠の解釈によれば『論語』(孔子)の言葉は「断章取義」に基づく「戯言」であるとし、戯言は聖人の高雅なふるまいであって、「雅」であるとする。
つまり、中野先生のいうような、「雅文芸」=品格、「俗文芸」=人情味と滑稽という図式に、徂徠学派の文芸はおさまらないのだとする(引用して明言)。雅俗論を定着させた中野先生の言説に異説を唱える勇気と戦略に私は敬意を表する。雅俗論に違和感を持つ人は少なくなかっただろうが、それを論文で明言することはまた大きな意味がある。「私もそう思っていた」と後出しでいうのは簡単だ。さすがに閑山子氏はこの論文の重要性を見抜いていたわけだが、遅ればせながら、私もこの論文は、今後言及されることが多くなると予測する。もっとも雅俗二元論を支持する立場からの反論ももちろん可能だろう。議論が起こることが期待される。
すこし本論からそれるが、近世漢詩文というのはたしかに浪漫的に語られやすい。石川淳や中村眞一郎らの作家のみならず、野口武彦氏の祇園南海論から、日野龍夫氏の服部南郭論、揖斐高氏の江戸詩歌論など、いずれも近代文学っぽい香りがする。そしてそれらの人の書くのがまた面白いのだ。これらの諸先学は一様に南畝と蕪村を愛しておられる(中野先生は多分蕪村はそんなに好きではないように思う)。蕪村を射程にいれてしまうと、どうしても浪漫的にならざるを得ないのかな。南畝と蕪村はずいぶん感性が違うように思うのだが、両方が好きだというのには、どこか視点設定が必要なのではないか。
話を戻す。あえて苦言を呈すれば、高山氏は雅俗論、人情論に異説を唱えたわけだが、それでどうなる?という見通しがわかりにくいということである。羊頭狗肉といえば失礼になるが、論の展開が、展開というよりも巻き納めになっているのではないか?この私の苦言はしかし、後からコツンとやられた者の負け惜しみに聞えないこともない。ふふふ。
2011年06月20日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック

