2011年09月03日

二つのタイプ

来週、秋成をテーマに、集中講義を某大学でやるのだが、その準備をしていていまさらながら思ったことがある。

研究者のタイプは大まかにいって二つある。つまりテクストに興味があるタイプと、作者に興味があるタイプだ。2010年に京都国立博物館で行われた秋成展は、秋成の実像を浮き彫りにするという目的があった。秋成の肖像、筆跡、交友などに焦点を当てたものである。それに関わったこともあるだろうが、作者あっての作品(テクスト)という思いがつよくなったし、テクストだけを読んで文学史を構想するのは無理かなと思うようになった。もともと近世文学研究は、作者について調べればかなりのところまで明らかに出来るのので、テクストだけで(あるいはテクストにより重点をおいて)読んでいく立場の人は多くない(だが、少ないだけに、作品論となると、それらの人々の論はきらびやかな光を放つ)。

だが、秋成研究の場合、作品主義の先頭に立っているはずの高田衛氏が不朽の秋成年譜を出しているし、作者研究の第一人者の長島弘明氏には魅力的な雨月物語論・春雨物語論がある。お二人に限らず、どちらか一方という人がいない感じだ。つまり、これは、秋成の作品がめっぽう面白い一方で、秋成の人物・交友が実に興味深いからだということなのだろう。

では、秋成における、作品世界と人物・交友が融合する形の研究というのは、どうだろう。部分的にはもちろんこれまでもいろいろあるのだが、たとえば秋成の体験や性格や思想が『雨月物語』に反映などというと、えてして胡散臭いトンデモ論文になってしまっているケースが少なくない。

今回の集中講義で、15回のシラバスを書かされたのだが、シラバスを書いている時点では意識していなかったが、ここに作品か人物かという問題が、未整理のまま出てしまっている(とほほ)。これはピンチなのだが、「ピンチはチャンス」という言葉を思い出して、集中講義をしながらこの融合ということを考えることにした。少し前に書いた「交誼と報謝」という論文の主旨を展開したいということである。
posted by 忘却散人 | Comment(0) | TrackBack(0) | 研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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