宮崎修多「江戸中期における擬古主義の流行に関する臆見」(『一八世紀日本の文化状況と国際環境』所収、2011年8月)は、意欲的に擬古主義の流行の所以を探る論考。少し前の論考であるが、このたび拝読。
聖人に近づくために、それと同時代の言語を習得し、古人に同化するために擬古するというのが、擬古主義の一般的なイメージ。そうではなく、古語を自在に使いこなし、自分を表現するために擬古する。服部南郭にそれが見られるという。一方、梁田蛻厳は詩では擬古を貫き、俳諧などの他ジャンルで俗表現を楽しんだ。それは南畝と同じだという。しかしどちらにも、洒落風俳諧の比喩表現が絡む。南郭は詩の擬古的表現のヒントをそこに得たのではないかといい、蛻厳は俳諧に身をひたして雅の作詩とのバランスをとった。
なかなか大胆な見取り図だが、これは詩論や俳論から文学史を構築するすオーソドックスな方法に対して、作者の表現意識によりそって、文学現象を解析しようとする新しい方法の提示でもあるのだ。これは作者の復権という文学研究の近年の流れに掉さすものかもしれない。
私もこれに共感するところ大である。自分にはなかなかできないことではあるが。
2012年01月15日
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