国学史上の重要人物荷田春満は、近年新編全集が完結し、再評価の機運が高まっているようであるが、その後の荷田学は、ほとんど取り上げられない。宣長視点の田中国学史でも春満は取り上げられているが、そこまで。もちろんそれでいいのだが、春滿の養子の在満、その子の御風(のりかぜ)、蒼生子(たみこ)らの学問もまた江戸の地では受け入れられていた。蒼生子はそれを「羽倉風」と呼んだ。春満にはじまる歌学の総称を「羽倉風」と呼んで、その実際を明らかにしてくれたのが、一戸渉「羽倉風のゆくえ」(『朱』55号、2011年12月)だ。「羽倉風」という言葉を拾って、タームにしようというのはなかなかセンスがいいのではないか。
この『朱』という雑誌は、伏見稲荷大社が出しているが、なかなかいい論文がよく載っているので、見逃せない雑誌だ(といいつつ、いつも見逃している)。
2012年01月26日
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県門や鈴門に比べて、やや日の当たりにくい荷田一門ですが、(また実際に少々捉え所がないのも否めませんが)、それだけにまだまだ研究の余地があるとも思っております。今日の研究でも、羽倉の風がもうちょっとだけ強く吹いてくれることを願ってこの度の拙稿を書いてみました次第です。
どうぞ今後とも宜しくお願い致します。