研究室の新2年生を歓迎する宴で、芥川を研究している比較文学の先生が挨拶に立ち、「僕は羅生門を誰よりもわかっている」と言われた。もちろん自らの研究の方法を語るという流れがあっての開口である。先生は、芥川作品を何度も筆記される。羅生門もそうである。そして、考え抜いた結果、「わかった」らしいのだ。しかし、こう私が書くと、浅薄に聞こえかねない。つまり「わかった」ことを人に伝えるのは至難なのである。私なりに『春雨物語』の序が「わかった」と思える時点があった。しかし、それをうまく書けたかといえば、「?}だ。だから「よくわかりました」と、言ってくださった方がいたときには嬉しかったものである。すくなくともこの人には通じたんだと。
昨日の教員の新歓で、件の先生に質問をぶつけた。「「わかった」ことを、言葉でつたえることができますか?」。そもそもわかるって何か。以前、書いたことがあるが男女が「わかりあう」のは、結局は触れ合うことによってしかありえないとすれば、それは言葉を超えている。我々が人の書いたものを「わかる」というのは、結局は共感のようなもので、それを言葉に還元すると、なにか違ってくるのではないか。先生は、「羅生門」は可能であるという。しかし、「心」は難しかった。といい、「心」論執筆体験を話された。貴重な話を聞くことができた。
それでも、我々は人とつながろうとするときに、どうしても言葉に頼る。本当は、目をはじめとして、自分の五感をフル稼働してそれをやらなければならないのであるが、言葉もまた、五感に連なるものでなくてはならない。
そのような言葉こそが、「文明」の鍵である。ところが、文明が進化したはずのいまほど、言葉が通じない時代はないのではないか。そこで「ことばの力」を見つめなおそうというプロジェクトが、京大人文研の「文明と言語」だった。その共同研究報告書が横山俊夫編『ことばの力 あらたな文明を求めて』(2012年3月、京都大学学術出版会)である。ことばにこだわる京大の伝統を感じるとともに、私の現在の問題意識に共振するので嬉しい、私にとってはタイムリーな本である。参加しているのは人文系の研究者だけではない、自然学、歴史人類学、分子生物学、霊長類学と、超域である。これから読むのが楽しみである。近世文学からは廣瀬千紗子さんが参加。上記の視点から、くるわのことばについて論じる。遊里のことばの研究は、風俗的研究か国語学的研究にどうしても偏るが、人と人とをつなぐツールとして見ていくと、新たな相貌が立ち上がるのではないかと、期待が膨らむ。こちらはまた別の機会に。
2012年04月13日
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