『リポート笠間』55号には、私も「西鶴読解の壁」なる小文(ちょっと長くなってしまったが)を書いている。ここ一年の西鶴読解をめぐる議論を、私見を交えつつまとめてみたものだ。とくに9月のワークショップの報告が中心。なお注は編集部が付けたものである。他の方はどうもご自身でつけられているようであるが…。それから小見出しも編集部の方で付けてくれた。
ついつい篠原進さんに言及することが多くなってしまった。このところの議論は、篠原さんの西鶴読解の姿勢、方法をめぐる議論でもあるから、どうしてもそうなってしまいます。
この議論、口火を切ったのは木越俊介さんだった。今号の水谷隆之さんの学界時評にも言及される。西鶴にとりくむ若い研究者が、これからどのように関わってくるかがこれからは注目されるだろう。というのも、篠原さんの挑発も、〈若い人たちの最近の研究は典拠の指摘が中心でそれで終わっている〉ことへの不満に発していると思われるからである。若手がそれにどうこたえるか、であろう。
今月は東京で俳文学会東京例会と西鶴研究会、浮世草子研究会のコラボで、西鶴と俳諧をめぐるシンポジウムがおこなわれるという(12月21日)。その日私は東京にいるが、別の研究会に出席で、残念である。
2013年12月05日
この記事へのコメント
遅くなりましたが、自分のブログに、この記事をネタにして書かせていただきました。ただし、飯倉さんの意見とかではなく、主として篠原氏への反論といったところです。
Posted by 木越 治 at 2013年12月31日 12:02
木越さん、コメントありがとうございます。ブログ拝読いたしました。私の文章が篠原さんの真意を伝えていたかどうか心配です。篠原さんの、「教室での学生の読みを大切にすべきだ」という意見は、〈『心』の「先生」と「わたし」は前世、兄弟だった〉というような読みを受け入れるべきだという話ではもちろんありません(まあこれは読みというよりも空想で、戯作的発想かもしれませんね)。西鶴に政治性を読みとってはならないというような、読み方の押しつけをするなということだと思います。ただ浜田君もそういう押しつけや、意見の封殺をしているわけではないので、篠原さんの意見自体がちょっと誤解があるのでは、と思っています(浜田君から何かコメントがあるかもしれません)。ただ、西鶴に限らず、古典文学を教室でどう読むのかという問題は、私たちにとって常に考えなければならない重要なことではありますね。
Posted by 忘却散人 at 2013年12月31日 16:15
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