おとといは討ち入りの日。高橋圭一さんのご教示によれば、講談師はこの日蕎麦を食すそうであるが、京都近世小説研究会も、蕎麦屋の河道屋養老で研究会と忘年会を行った。河道屋は恒例、そして、ここ3年は井口洋先生の『奥の細道』本文論が定番となっている(来年は違うとかうかがったが)。他用と重なっていたため一昨年・昨年は聞き逃したが、今年は拝聴することができた。
タイトルは「芦角一声、あつめて早し―奥の細道のテクストクリティーク」である。奥の細道の不審本文を従来の諸説を細かく検討の上、あるべき(井口先生によれば芭蕉が書いたはずの)本文に正してゆくというのが、一連の本文論の方法である。
今回ご提案の校訂本文も、非常にすっきりしていて、なるほど本来の奥の細道の本文とはかくあるべきか、と聞いていて感心していたのだが、これが芭蕉自筆本云々の議論とリンクすると話はややこしくなる。
まず、井口先生の示された本文はあくまで井口先生によって想定された、あるべき本文であって、現実には存在しない本文である。したがって芭蕉がかいたものであるかどうかの判定は、「芭蕉がおかしな語彙を使わない、下手な文章は書かない」という前提に立つ必要がある。字の問題ではなく、文章の問題であるということなのであり、これは森銑三の「好色一代男のみが西鶴の書いた文章である」という時の論理と同じだと思う。
しかし、当然ながら、「理想的な本文=芭蕉作成本文」としていいのかという疑問が生じる。芭蕉自筆かとされた中尾本は、井口先生によれば、本来あるべき本文とくらべると拙劣であるがゆえに芭蕉自筆ではない、というわけである。
もし、井口先生が、芭蕉自筆の議論と関わりなく、奥の細道のあるべき本文として、井口洋校訂本『奥の細道』を提示されるのであれば、私としては納得するし、そういう仕事は、江戸文学研究では異例であるが、「有り」ではないか。「『奥の細道』を世界に開き、後世に伝えるには、わかりやすく論理的な文章にすべきである」ということが議論されてもいいと思うからだ。そういう議論の提案として井口先生の校訂本文案が提示されるのであれば、私は非常に意義深いことであるのではないかと思う。今回井口先生が「校訂私案」ではなく「テクストクリティーク」という言葉を使われたのはそういう意味があったのではないかと、私は密かに思っているのだが(そのわりには、あからさまに質問してしまいましたが…)。
2013年12月16日
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