2014年01月24日

江戸文学をやるのなら

『日本文学』で「日文協と私」というシリーズが始まっている。2013年12月号には高田先生が書かれている。
わざと、一見挑発的な部分を抜き出してみよう。

「江戸文学をやるのなら、江戸人になってしまえという議論がある。正気かと言いたい。江戸時代はもう帰ってこない時代なのだ。」

「江戸人になったふりをして、江戸文学を楽しむふりをするなどいやらしくてできない」

このくだりを読んで、これは中村幸彦先生以来の「江戸に即して江戸文芸を読む」という、いわば近世文学研究のオーソドックスな基本認識の転覆、あるいはもっと具体的には「江戸にこちらから出向いて、江戸の人の言うことを聞き書きする」というスタンスの中野三敏先生への批判と読んだ方もおられるかもしれない。

 だが、この文章をきちんと読むと、そういう読みが誤解であることは明瞭である。高田先生は、「江戸文学の多様な在りようのなかに、現・近代文学の言う「文学」はそこにあるはずはない。そんなものは誰もはじめから求めていない。江戸文学に夢中になり、自己と江戸文学の差異を冷静にみつめるのは、私が現代人だからこそ江戸が魅力的だからである」という。これは、中野先生のおっしゃることと全く同じである。
 
 「江戸文学をやるのなら、江戸人になってしまえ」と言っている人が本当にいるとしたら、それはかなりどうかしている。「江戸人になったふりをして、江戸文学を楽しむふりをする」のはいやらしい。全く同感である。大体江戸文学の大家と言われている方を思い浮かべればすぐわかるが、みんなモダンである。フランス文学が好きだったり、映画通だったり、洋服のファッションセンスが抜群だったり。つまり、バリバリの現代人である。ただ、中野先生のおっしゃることを勘違いして、「江戸人になりきる」ことができると思っている人や、中野先生が本気で江戸人になれると主張していると、勘違いしている人も多分いる。具体的に誰ということでなくとも、そんなバカなことを考えるのはやめるべし、と高田先生はおっしゃっているのである。

 高田先生も中野先生もそれぞれのお仕事をお互いにリスペクトしていることは、これまで何度も実際にうかがってきた。それは、現代人なのに、そこまで江戸に斬り込むことができるのかという驚きが基調になっていると私は思っている。

 もちろん思想的な立場は異なるだろう。しかし、現代人であるからこそ、江戸が魅力的なのだという研究感性は、高田衛も中野三敏も変わらない。そう私は確信している。

 
posted by 忘却散人 | Comment(0) | TrackBack(0) | 研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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