2014年12月16日

『雨月物語』「青頭巾」の読み

 先週の土曜日は、H大学勉強会で『雨月物語』「青頭巾」を読む。

「青頭巾」とは、快庵禅師が、愛する稚児を失った悲しみのあまり人食鬼となった僧を済度する話であるが、その済度の方法は、「江月照松風吹 永夜清宵何所為」という証道歌(曹洞宗開祖慧能の門弟玄覚の作)の二句を授け、その意を求めよと命じるというもの。僧はその句を唱え続け「影のやうなる人」となっている。禅師が禅杖を以て一喝すると、僧は「忽ち氷の朝日にあふがごとくきえうせて」しまうのである。

 この場面の解釈を中心として、ハイレベルな議論が戦わされてきた。その議論の中でも、日本古典文学大系などの注釈以来、この二句を「自然は何のためにあるのか(何のためでもない)」と解釈してきたのを、江戸時代のこの句の注釈などから「おまえは何をするのだ」と解釈すべきだとする大谷雅夫氏の説がある。あまりに衝撃的だったため、かつてこれを「国文学」の学界時評で大きく取り上げたことがある。
 大谷論文によれば、大正から昭和初期の、いまではほとんど顧みられていない注釈書では、まさに大谷説のような注がつけられているという。そもそも『証道歌』の注釈において「自然は何のためにあるのか」という解釈が行われていて、雨月研究者もそれに従ったために、ある時からこの解釈が固定的になったようだ。注釈というのは一端固定するとなかなか疑われないものである。とりわけ、中村幸彦先生のような大家の注であればなおさらのことである。

 その注釈の通りに解釈するとすれば、鬼僧は、朝日とともに消えることによって、その問いに答えたことになりそうである。稚児への執着が、二句への執着に変わっただけだという説もあるなかで、大谷説の読解は、それこそ氷が朝日を受けて消えるようにクリアーである。大徳快庵の高僧説話であったり、曹洞宗が真言宗にとってかわった寺院中興譚であったりした場合に、この済度のあり方は、とてもしっくりくる。

 しかし、「食人鬼の僧が「直くたくましき性」の人であるから、教化が可能である」と快庵がいうこととの関わりはどうなのか?仏教説話の枠組みの中で、この国学的認識ともいえる部分は、浮いているのか。ちゃんと回収されるのか?

 謎は尽きない。「菊花の約」の末尾の語り手の言や、「浅茅の宿」の勝四郎の歌など、『雨月物語』には、なにか、物語を枠をずらしてしまうような言述があり、それを読み解く楽しさがある。その場合、大谷さんのとった正統な注釈的方法が、たいていの場合、従来の読みを覆す武器となるのである。

 そういう、ズレや、わざと書いていないとしか思われないような空白(西鶴研究では「ぬけ」といったりする)のあるテキストには、読み巧者が集まって、レベルの高い作品研究史を作っていくのである。西鶴・秋成には、それがある。しかし、そのズレを正したり、空白を埋めることが読みなのではない。それは注釈である。読みはそこからはじまる。
 
posted by 忘却散人 | Comment(0) | TrackBack(0) | 研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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