これしかないという紅白横縞のカバー地に、これしかないというタイトルをゴシック太字で中央縦書。
著者、高橋明彦(号半魚)は日本近世文学研究者。
この著書は、半魚高橋明彦が一番出したかった本であったはずだから、心から慶賀したい。
ここには、日本近世文学者としての高橋の「文学研究とは何か」というメッセージも篭められている。
彼の師匠は高田衛だが、高田衛のメッセージと基本的には同じだと思う。
21頁あたり。文献学的に作品の元ネタを探し当てるような方法を楳図作品でやって一番気分のわるいのは私であると。ではどういう方法なのか?正直、そこは読んでないからわからないのだが(スンマセン)、ひとりよがりではないはずだ。
自らヒロイックになっていることをちゃんと客観視できるような人の書いた評論だから、そこは安心して読めるはずだ。そもそも文献学的方法を実はかなりハイレベルで出来る人なのだ。
500頁超で3600円+税とは、さすが楳図かずお研究書である。ちと羨ましい。
最後に、敬称をつけていないのは、私なりのリスペクトである。


本書11章と、あと、『日本文学』2011年1月号に書いた莠句冊論が、すこしだけその方法に足をかけてるはずなのですが、まあ、まだまだなのです。でも、しばらくこれでやっていこうと思っています。
まずは、ご紹介、ありがとうございました。
拙著11章は楳図の『イアラ』という歴史物中編作品を論じて、初出論文を半分以上書き直したものですが、論文のモチーフは、楳図は史実に解消されない歴史の複数性を洞察し描いている、ということです。書き直してしばらくしてハタと気づいたのは、このモチーフは、綾足『本朝水滸伝』(とくに高田衛先生が、恣意的なまでの歴史改変として論じたそれ)がもっと身軽に実践したのと同じじゃないか!ということでした。
典拠じゃありませんが(笑)、ある種のネタばらしです。
ここに御礼を書いて、よいのでしょうか。書評の本文がネットでは読めないようですが、驚くべきレベルで評していただいています。もう大阪に足を向けて眠りません。一言ひとことが恐るべき強度で、拙著を綺麗に鮮やかに料理・整理してくださっています。しあわせです。典拠の問題を、ここまで明確に読み切ってくださったのは、やはり飯倉先生だからだろうなーと思います。みんなに読んでほしいほどの評文です。(僕の本を読むより、よくわかります)。高田先生にもお送りします。
まだまだ書き足りませんが、まずはとりあえず御礼もうしあげます。