ハイデルベルク大学で開催された、ハイデルベルク大学・大阪大学のジョイントシンポジウム「江戸庶民文化の諸相」に参加した。少し報告。
初日。ドイツ文学がご専門の三谷研爾先生が、基調報告。「近世と初期近代のあいだ」。これはあとで触れる。シンポ初日。フランクフルト大学のキンスキー先生の、江戸時代の子供のイメージを従来の視角ではない視角で、たとえば女性の日記から求めてみようという構想は、なかなか面白かった。中尾薫先生の「小謡」=庶民の教養という話は、小謡を集めた和本を回覧しての発表で、非常に興味深かった。「小謡」は本文研究も、書誌的研究もほとんど立ち遅れている。是非「小謡」集成を作ってほしいとお願いした。電子データだと可能性がぐっと広がる。近世俗文芸の典拠の宝庫かもしれない。自分の発表「寺子屋と往来物」も、双六で遊んでもらうというアクティブラーニング(?)を最後にやって終了。ハイデルベルク大学のアロカイ先生は、女性の旅日記をさまざまな視点から分析されたが、旅日記に基づくデジタル文学地図の構想を進めているらしく、楽しみである。ノラ・バルテルスさん(ハイデルベルク大院生、元阪大の特別聴講学生)の「井上ひさしと江戸戯作」は、『表裏源内蛙合戦』の間テクスト性。源内戯作のほぼ丸どりの引用や、発表当時流行ったレナウンの「イエイエ」のCMの引用を実例に挙げた。とくにレナウンの引用については、実際の上演動画とレナウンのCMの動画を流して大いに受けた。レナウンの引用の方が江戸戯作的というのはその通り!アルプレット先生(ハイデルベルク大学)の初期説経節は、「さんせう大夫」というテキストを例に、説経の語りの意味について考察。
2日め。宇野田尚哉先生は、近世前期の上層庶民の読書生活を分析して、彼らの思想構造を分析。参考資料として配布した写本往来物、とくに単に表紙に「手本」と書かれた、挨拶の冒頭文を大書した(半丁に一行2,3文字)習字手本が面白く、写真撮影を許していただいた。
マーレン・エーラス先生(ノースカロライナ大)は越前大野藩の城下町大野の飢饉救済のありようを、文書から実証的に分析。身分社会とは何か、ということを考えさせてくれる素晴らしい発表だった。クレーマ先生(ハイデルベルク大)は江戸時代における人間と牛馬の関係を、農業書から丹念に拾い、報告。おもわず談義本『三獣演談』を思い出してしmいました。
日本近世文学研究という枠組は、こういう場に出ると、あまりにも狭い。もちろんその専門的な知識や所見は大いに他の分野にも参考になると思うが、議論になった時に、日本近世文学研究のタームが通用しない。またヨーロッパの日本学の近世観あるいは近世観史というものが、どういうもので、それは日本のそれとどう関わり切り結ぶのかという問題意識を持たざるを得ない。いったんそうなると、日本近世文学研究という枠組みにその意識を捨てては戻れない。これは今回国際的というだけでなく歴史学・社会史・芸能史などの専門家とご一緒する学際的なものでもあったということで痛感した。
専門はドイツ文学ではあるが、三谷先生の基調報告は今回のシンポで何が問題になるかを予告するようなものであり、最終討論もそこに戻った。キーワードは「アーリー・モダン」で、近代を用意した時代という意味ではなく、むしろ「こうあったかもしれない近代」の可能性を秘めた時代ととり、アーリーモダンに相当する日本の「近世」をどう評価するかという議論である。それは「明るい近世」という近年の江戸時代評価をどうするかという問題意識とつながる。私が自分の研究視野の狭さを感じるのは、世界的な意味での歴史・文学史研究の潮流に無関心であったということで、それを反省したところにきわめて個人的な意義を見出した次第なのである。
2015年12月13日
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