12月20日(日)、キャンパスプラザ京都を会場に行なわれた京都近世小説研究会12月例会は、50名弱の参加者(文字通り北は北海道から南は九州まで)を得て、盛会の裡に終了した。この会の模様は別途まとめられているので、詳細はそちらを参照されたい(といっても、断片的実況なのでわかりにくいが)が、井上泰至さんと木越治さんを迎えて、西鶴特集の趣きとなった。
まず、井上さんは、『武家義理物語』を面白く読む/読めなくする視点―巻二の四、巻六の一を中心に―」と題して、従来とくに評価されてはいない2話を取り上げた。井上さんの読みは納得のいくもので、「面白く読む」ことに成功していた。質疑では、さらに面白く読める可能性や、読みを固める方向での意見がほとんどであった。西鶴の武家物と軍書との関係がポイントのひとつとなる。西鶴あるいは西鶴の読者は軍書に親しんでいたのか。「そんなはずはない、なぐさみ草の浮世草子と軍書の読者は違う」というのが、井上さんと対立している西鶴研究者の意見のようであるが、井上さんは、軍書は今日では硬いイメージがあるが、娯楽的な読まれ方もしており、浮世草子の読者が軍書を読んでいても全く違和感はないという。一方、西鶴の読者は町人であるというのも根拠のないイメージで、実際に大名蔵書の中に西鶴の武家物はよくある。西鶴の読者層と軍書の読者層が重ならないというのであれば、井上さんが言うようにその根拠を示すべきであろうが、現在のところ根拠は示されていないようである。
木越さんは、「よくわかる西鶴―『好色五人女』巻三の文体分析の試み」と題して、おさん茂右衛門の文章を、「叙述」「語り」「修辞」という三つのレベルで腑分けして、「語り」「修辞」のところに、西鶴の面白さを説く鍵があるとした。印象深いのは、文体分析というのは、分析者がその作品を読みこんでいなければできない、ということを明言されていたということ。これは確かにその通りであろう。そして分析の方法も、どの作品にも適当であるというわけではないという認識もおありである。これに対して、「はなし」とか「俳諧的文章」とかいうことを考えなくていいのかなど、さまざまな質疑応答があった。西鶴を剽窃しつつわかりやすくなっている其磧の文体を間にいれて考えてみたらという廣瀬千紗子さんの意見も面白い。なお「て」の続く文脈についても話題となり、これは中村幸彦先生の「好色一代男の文体」という論文で触れているような記憶があったので指摘しておいたが、確認したらやはり言及があった(『著作集』第6巻)。
今回は質疑応答が非常に面白かったが、それは発表が大きな問題提起を内包しているからに他ならない。年末スペシャルにふさわしい例会、懇親会も2次会も盛り上がった。
2015年12月21日
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帰国後の諸般の整理で、研究会におうかがいできずに残念でした。井上さんがどういう発表をされたのか興味津々です。ただ、この欄ではなく、他の方のFBを読んでいて、気になったのですが、
東の西鶴研究会に「絶対正義」や「権威」などいませんよ。年に二回ですが、自由に議論しています。暉峻先生や野間先生が「権威」だったころを知っている研究者は少数になりましたから。少なくとも、現役だった野間先生のような雰囲気はありません。僕は、過去の権威ではなく、今権威になりつつある「中村幸彦西鶴」の再検討が必要だと思っていますが、いかがですか?僕の記憶では、晩年の野間先生や谷脇先生が「中村西鶴」を高く評価していました。僕もかなり影響されています。が、それが「権威」になって多面的な議論が行われずに「中村西鶴」が神格化するのとは別な話です。僕は、優れた研究には、あえてカラム必要があると思っています。つまらぬものは無視していればいいことです。西ではどうなんでしょうか?カラんでいますか?関ヶ原をやっているつもりは、まったくありませんが!