以下は、9月5日〜7日に行われた研究室旅行のパンフレットに寄稿した文章をアップする。一部補訂している。ドイツ滞在中は非常にいい気分で仕事ができたので、いいイメージを持っているが、ドイツにはドイツの抱えている問題がもちろんある。それを忘れてはならない。
□わずか四ヶ月余りではあるが、ドイツのハイデルベルク大学で、二つの授業科目を一セメスター(十五回)担当し、何度か研究集会に参加し、一度は発表もさせていただいた。そこで、教育と研究のことについて、私が知り得たこと、考えたことを、もとより狭い経験に基づくものではあるが書いてみたい。何かの参考になれば幸いである。
□ドイツの大学進学率は四十パーセント程度であり、余り高くはない。次に述べるように入学金・学費が無料であるにも関わらず、である。このことについて、ドイツの人に理由を聞いてみると、ドイツが学歴を重視する社会ではないからであるという。ドイツは伝統的に職人を重んじる国である。大学を出たからと言って高収入は保証されない。
□一方で、学びたい人にとって、境遇は恵まれている。なにせ教育費は公的負担により、タダである。学びたい人は何年でも在学して学ぶことができるようで、私の授業には、学部十一年目の学生が出席していた。日本の大学ならそういう学生は、ほとんど大学にも出てこない、成績のよくない学生が多いが、彼は熱心だし、不出来ではないし、教員の信頼も厚く、学内のイベントでは常に中心におり、明るく、人柄がよく、彼女もいて、学生生活を謳歌している好青年である。
□ちなみに、ハイデルベルク大学のような著名な大学だが、哲学部(文学部)の場合、入学試験はない。医学部や法学部はあるようだが、ない方が普通なのである。大学院についても入試はない。入学資格はあるが、試験はない。教員は入試業務がないわけで、その時間を授業準備や研究に割けるわけである。もちろん授業についていけない者は脱落していく。このシステムがいいかわるいかは一概に言えないが、学歴重視社会ではないゆえに可能であるとは言えるかもしれない。
□では授業はどんな感じであろうか。他の先生方も異口同音にいうのは、学生がアクティブで、疑問があれば、教師の説明中であっても、質問を投げかけてくるということである。
また、授業中の居眠りは、教師に対してきわめて失礼とされるため、ほとんどない。もっとも遅刻は結構あったことは付け加えておこう。授業のひとつは上田秋成の文学がテーマで、私にはテキストを丁寧に解釈していく「日本式」?の授業をすることが求められていたのかもしれないが、結局議論中心の授業を行った。古典文学専攻の学生が誰もいないということも理由の一つだったが、古文の理解度にかなりの個人差があり、解釈中心の授業が成立しそうになかったからである。『雨月物語』と『春雨物語』はドイツ語訳があるため、少なくともドイツ語訳を事前に読んでおくこととし、テキストとしては日本古典文学全集を用いながらも、実際にそれを細かく読んでいくことはしなかった。彼らは、女性が徹底的にネガティブに描かれる話や、喜んで死を受け入れる話に素直に違和感を表明する反面、それを面白いと受け止めることもあり、一様ではない。
□もう一コマは、くずし字学習を含む、江戸の教養についての授業であるが、結局くずし字学習中心の授業になった。参加者は八名。ここにも古典文学を専攻する学生は1名しかいなかったが、くずし字への関心は非常に高く、最初の週に紹介したくずし字アプリのテストを、次の週には、ほとんど全問正解してくる強者もいた。前週に配布した宿題のくずし字テキストを、授業では順番に読みあげて行き、文字や語彙の説明を加えるが、さらに、同席されているハイデルベルク大の先生が、ドイツ語訳させるという授業である。学生がその場で試みるドイツ語訳や、それに対する先生のコメントは全くわからないが、比較的訳しやすい教訓書をテキストとして用いていたから、学生たちもなんとか訳していたようである。しかし日本学科で学んでいるだけあって、孝悌忠信などの徳目については、さほど説明しなくても理解できているようではある。
□授業は、たとえば一限が九時から十一時までの一二〇分であるが、実際九時十五分に始まり、十時四十五分に終了する九十分授業である。休憩時間が三十分、昼休みは九十分あり、ゆったりした感じとなる。
□次に研究会へ参加した感想を述べよう。七月二十四日現在までに私が参加した研究会は、使用言語がドイツ語か英語であった。といっても参加者のほとんどは日本語もわかるので、私が日本語で質問することについては問題なかった。
□ワークショップでの発表には日本のようにハンドアウトがない。大抵の場合はスライドを使用するが、その作り方は十人十色。非常に丁寧に作ってくる人もいれば、スライド数枚の人もいる。もちろんハンドアウトを作るのが悪いことだというわけではない。持ち帰ってじっくり検討できることは喜ばれる。しかし、いくつかの発表を聴いて思ったのは、事実を明らかにするという発表よりも、こういう考え方があるという発表の方が多いので、ハンドアウトがあったとしてもその発表が終われば用済みで、学会発表や論文執筆にむけブラッシュアップする。保存することを求められないからハンドアウトは要らない、そういう論理のような気がする。
□一時間であれば、発表時間が三十分、質疑応答が三十分である。この三十分を持て余すということはまずない。日本の研究会でありがちな、発表者の不勉強な点を突いて、質問者が知識を披歴し、発表者の「その点につきましては不勉強で調査が及んでおりませんので、今後の検討課題とさせていただきます」という答えを引き出すような、一方通行のやりとりがないのである。第一、そういう質問があったとしても、発表者は「それはわかりません」とあっさり言うだけだ。
□枠組みを共有し、各々のテーマに、さまざまな観点からの見解をぶつけることで、新たな地平を拓く。皆そこを目指している。重要なのは個々の発表ではなく、枠組みの方である。したがって、ワークショップを開催する時は、ワークショップのテーマ、枠組みの作り方が重要である。ハイデルベルク大学には「クラスター」という研究組織がある。阪大の文学研究科に存在するクラスターとは似て非なるものである。全学的な予算がきちんと措置され、それ用の建物もある。ハイデルベルク大学には日本学クラスターがあり、頻繁に、講演会・研究会・シンポジウムを催している。
□私が参加した研究会のひとつは、「京都―古都のイメージ形成」というテーマのワークショップで、高木博志京大教授が基調講演された他、全部で六人が登壇した。文学・美術・歴史・前近代・近代という枠を取り払った議論が行われた。イギリス・フランス・ドイツ・スイス・オーストラリア・日本などの国々から五十名ほどが参加した。使用言語は英語だが、日本語の質問も許されたので、私も都名所図会についての発表や、古都のイメージ形成の基調講演には、質問で参加できた。タイモン・スクリーチ氏やジョルジュ・モストウ氏というビッグネームの発表も聞けた。このワークショップが大成功したのは、ひとえにコーディネーターの枠組み設定がよかったからだと思う。日本でも、インターディシプリナリティがますます重要になるだろうと実感した。
□とはいえ、彼らは、日本の実証的な研究や注釈書を利用して研究をしていることもまた事実であり、それらは非常に重宝されている。一方で、その実証の正しさや、注釈の精度について正しい評価が出来ているかどうかは問題が残る。私達は、日本文学への国際的なアプローチの仕方を知るとともに、実証的方法や、地道な注釈を捨ててもいいと言うことは決してないのである。ダブルスタンダードが求められている。
2016年09月21日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック