2016年12月28日

徒然草への途

 ドイツ滞在中にご恵投いただいたご著書で、本ブログに取り上げたいものがある。なんとか年内にと思っていたのだが、厳しい状況になってきた。
 研究書を賜ると、まず「あとがき」を読む。多くの方もそうであろう。それから前書きか序文・序論に相当する部分を読み、そこから1頁ずつとりあえず最後まで繰って行く。その間に自身の現在の関心に関わるところにっひっかかることがあり、そこでは目を止めて拾い読みすることもある。その至福の時間で気持ちが高揚してくると、ブログに書き始める。書評と根本的に違うのは、著者の文脈をさほど考えずに、自分の文脈で読んでいくことだろう。申し訳ないと思うが、自分の持つ問題系というかアンテナに引っかかるところが大切なのだ。
 たとえば、荒木浩さんの大著『徒然草への途―中世びとの心とことば』(勉誠出版、2016年6月)。私の関心は、『徒然草』は誰に向けて書かれたものなのかということである。私が授業などでよくいうことは、前近代において人が著作するとき、それが出版など多くの人を最初から読者として想定していない時、ほとんどの場合は、ある特定の読者(それは神仏である場合もあるし、故人である場合もある)に向けて書かれている。そこを無視して作品を読解することはできない。またその特定の読者をまさに特定することは、研究上重要な作業であると。
 では『徒然草』はどうなのか。その序段によれば、あたかも「こころにうつるよしなしごとを」誰に向けてということなく書き綴ったかのようなイメージが作られているのではないだろうか?荒木さんは、そこをどう考えているのだろうか。そう思って、先に述べた私なりの読書法で読みはじめるのである。そうすると、どうやらヒントが示されているらしいと感じる。だが、「あとがき」を読んで、まず圧倒される。
 荒木さんが阪大にいた時、私は研究室が隣だった。今は斎藤理生さんがいる部屋だ。隣室で否応なく感じた荒木さんについている「筆力の神」。この筆力の神はどうも私が赴任する直前に降臨したようだ。あとがきを読むとそういうことらしい。荒木さんが「スランプを感じた」という時期の直後のことだ(スランプといっても我々とはレベルが違うが)。
 そして、序論に返ると、ああそうだった、いつもそうだったとあらためて思い知らされつつが、荒木ワールド、つまり著者文脈に引き込まれてしまうのだ。自分文脈では読ませない、「筆力の神」の為せる業である。とりわけ「心」と「書く事」との関わりについての考究は他の追随を許さないほど深い。それが、あとがきと呼応しているのである。
 むしろ、全部の頁をめくった時に、私の今の問題意識はどこかに消えて、ずっと忘れていた疑問を思い起こさせていただいた。それは『春雨物語』序文と『徒然草』序段との関わりであり、書き始める契機をどのように装うかの問題である。また歌人が散文を書くと言うことはどういうことかという問題。本書の評価などできないが、本書がどういう研究者にも与えうるインパクトの可能性について、それは限りなく豊かだと言うことだけは断言できるのである。
 そして、最初の疑問に戻る。『徒然草』は誰に向けて書かれたものなのか(と、江戸人は考えていたのか)。それについて少しヒントになる記述はある。それを手がかりにまた考えてみたい。
posted by 忘却散人 | Comment(0) | TrackBack(0) | 研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/445318655
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック