2017年05月04日

様式と営為

 『近世部会誌』11号。日本文学協会近世部会。2017年3月。この研究会は京伝の読本を読み続けている。「主題」を仮設して読む作品論に違和感があることを、編集後記で風間誠史さんが述べている。主題というよりは趣向、構想というよりは趣味的な発想であると。「読本こそ、最もとりすました遊戯であった」との山口剛の言を引き、「一番ぴったりくるのである。とはいえこれは江戸戯作を現実逃避の産物とする「近代」的な言説で、それを乗り越えようと研究者は苦心してきたのである。しかし、今や老若男女がこぞってポケモン探しに街なかを徘徊しており、「遊戯」は「現実」そのものになっている。「遊戯」をそれとして論じることが現実逃避とは別の意味を持つのではないか?」と。
 「現実」(真面目)と「遊戯」を二項対立で捉えるのが近代で、江戸時代はそうでなかった、しかし今や近代も変わって、「遊戯」が「現実」そのものになってきたのだと。
 一方、同氏は高木元氏の文学研究観に違和感を表明する文章を書かれている。高木氏は一貫して、「文学的価値」を云々する文学研究観を斬ってきた方で、「様式」を重視し、これを歴史的に位置付けることを目指しておられると私は見ている。これに対して「営為」を重視するのが風間氏か。
 浜田啓介先生のご本に「様式と営為」を謳う名著があることを思い出す。少し話がずれてくるが、近世の写本の意味は、様式だけでは絶対に解けない。風間さんの引用する高木さんの文章では、近世文学の対象は刊本のみであるような把握をされているかに見えるが、写本史を考えたら、当然のことだが、近世が圧倒的に資料が残されているわけだから、これを無視することはできない。もっとも一般的には近世は「出版の時代」で、写本研究は主流ではない。しかし、私見によれば、写本研究は非常に重要である(2010年の秋成展をきっかけに、秋成の文学を考える時にも写本の意味が重要だと考え、その一端を『上田秋成―絆としての文芸』大阪大学出版会、2012に書いた)。そして、写本はどの写本であれ、たった1部。写本をつくる書写者の営みを考えずして、写本論は成立しない。そして、実は版本にも、それが当然あるのである。版本が版本としてのアイデンティティを持つのが、「様式」の確立だとすれば、それ以外の部分には「営み」があるのは当然だと思う。
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