『国語と国文学』11月号特集号は、「近世文人の文学」を特集。若手ベテラン中堅のバランス絶妙に9本の論考を載せる。いずれも必読と思うが、まず私にとっては長島弘明「『春雨物語』の書写と出版」である。待ちに待った新資料紹介である。
誰宛かはわからないながら、紛れもない秋成自筆書状。これが現れたのは、何年前の東京古典会だったか。大阪から見に行きました。何しろ、春雨物語について秋成自身が書いた書状が初めて出てきたのである。ちょうど会場に新進のTさんが居合わせ、興奮気味に自分も入札したと話していた。その時の金額も覚えているが・・・。しかし、モノは長島弘明さんの手に落ちた。予想通りである。なんとなく、そのことは知っていたので、長島さんにお会いする度に、「是非、紹介してください。学界で共有を」と訴えていたのだが、もとより長島さんもそのおつもりであったので、今回周到きわまる解題と論考を付して、解き放ったのである。喜ばしからずや。
長島さんの考証の結果、次のことが明らかにされた。
この秋成書状は、文化五年六月二十二日に書かれたもの。
宛先は、「本来なら会って話すべきなのだがと行っているようなので」近隣の人物。松本柳斎が第一候補だが確証はない。
内容からわかることは、
伊勢人が春雨物語をほしがっている。
今回いったん大阪の人に書写させた。(その書写した人物は斉収か、巻子本の形である可能性が高い)。
それをあなた(宛先の人物)の方でいったん見てほしい。
その上で私(秋成)が筆写する。
それを差し上げ、所望の人が満足するような書家に清書させてはどうか。松阪には韓天寿のような書家の流れを汲む人がいるのではないか。
ある本屋が春雨物語を出版したいと言ってきている。(これも不明だが京都の吉田四郎右衛門がもっともふさわしい。)
長島さんの考察では、この伊勢人の元に結果的に送られたのは、秋成自筆の巻子本で、現在の桜山本の底本になったものである。
「いせ人」は誰か。伊勢松阪の長谷川氏一族(が蓋然性が高い)をはじめとする好学の町人の誰かである。
さてこのあとの長島さんの論の展開では、富岡本と文化五年本の文章の違いは、伊勢人への配慮によるものではなく、秋成の内発的な欲求によって生じたものであるとする。長島さんは富岡本がほんの少し先に成ったという説である。これを長島さんが強調するのは、たぶんというか、明記されているように、このごろ私や高松亮太氏が、本文の違いは想定する読者の違いによるものとする考え方(この考え方には鈴木淳氏や稲田篤信氏も立っている、あるいは否定していないと思う)があり、それを否定するためであろう。かなり強い調子で否定している(これは結構批判される側としては嬉しいのですが)。この点に関しては、いくつか弁論があるが、拙速にこの場ですることではない。
もう1点、長島さんは、この手紙で、春雨物語の出版を秋成は拒否していなかったことが明らかになったことを受けて、『春雨物語』はその内在的論理から版本になることを拒否したと考えるのはロマンチックな俗説であったろう、と切り捨てている(こちらは佐藤深雪さんの説を意識か)。この点に私も異論はない。むしろ、秋成自身が最初から出版を想定して春雨物語を書いたわけではないということがわかったという側面を重視したい。
ともあれ、今後の春雨物語論は本論文そして本論文で紹介された書翰抜きには語れない。この論文で拙論を批判していただいたのは幾重にもありがたく、御礼申しあげたい。
私としては、「伊勢人の所望があった」ことが明らかにされたことは、むしろ拙論にとってはありがたいことだった。
もちろん、私が「想像」しているような「一方で富岡本が羽倉家のために書かれた」という根拠は依然としてなにもない。
しかし、「学問廃棄後に物語に自由を見出した」とか「誰かに贈るために、あるいは誰かに依頼されて、物語の文章を初めて書くなどということはあり得ない」と言い切られると、そこはもう少し待ってほしいと言いたくなる。
「和文や随筆の場合はあり得る」ともおっしゃっているが、「春雨物語」を読本の物語性と同一上に置くのはちょっとためらわれる。和文や随筆とは違うが、「物語」とは、春雨「物語」の場合、序文もふくめて「漫語」「独語」に近いのではないか。和文や随筆に近い物語ではないか。
いずれにせよ、久々に目の覚めるような春雨の論文に接し、まことにありがたかった。
2017年10月25日
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