鈴木健一さんの編んだ『輪切りの江戸文化史』(勉誠出版、2018年10月)が、刊行された。
かつて學燈社の『国文学』の臨時増刊号かで、『編年体日本文学史』というような企画があり、10年おきぐらいに時期を区切って、分担執筆するというものがあったように記憶する(正確ではないかもしれない)。それもひとりが50年分くらいを担当したのではなかったか。
また、岩波講座日本文学史も、世紀別の編集(それぞれの分担は専門の人に依頼したもの)で話題を呼んだが、それも早昔話。
しかし、今回の企画は、任意に選ばれた江戸時代(といっても明治20年もはいっているが)のある1年を15選んで、それぞれを一人の研究者に書かせている。
その1年はどのように選ばれたのかの説明はないが、鈴木さんが重要な年として選んだのだろう。もちろん、違う選択もありうる。私には嬉しいことだが、近世中期、つまり十八世紀にバイアスがかかっている。近年の研究傾向を反映しているのだろうか、十八世紀を推している私としては、「おお、いいじゃん」と思うわけだ。そして、その1年を誰に書いてもらうのか、これも鈴木さんのセンスである。漢詩・和歌・俳諧・演劇・小説と、それぞれの専門にどうしてもかたよってしまうところもある。たまたま出来上がった輪切り文化史は、作りようによっては、まったく違うものになる、そういう可能性に思いを寄せながら読むのもまた一興だろう。
それぞれの原稿は、この特異な形式の依頼でしかありえない内容であるが、みなさん自分の関心外のところにも触れないわけにはいかず、なかなか苦労しているのがよくわかる。そしてこわいのは、その1年の総括をそれぞれの担当者がするため、その担当者の文化史観がモロに出ているところだろう。他の人が書いたら、全然違う物になるだろうな、と思わせるわけだし、文化史観の豊かさ、深さというものの個人差が結構はっきり出たりするので、案外執筆者にとってはシビアだったのではないだろうか。
しかし、どの年にしろ、なんらかの意味で「転換期」と捉えているものが多かったように思う。鈴木さんがそういう年を選んでいるのか、輪切りにすると、伝統と新興の両方が見えるので、そうなるのか。
この輪切り文学史、違う編者が違う年を選び、違う執筆者に頼んで、別バージョンを作ると面白いだろうな、と無責任なことを考えた次第である。
あれは、すべて私が「年」を指定したわけではないのです。たしかに明治元年は絶対必要だと思いましたので、田中仁氏にこの年でとお願いしましたし、いくつかそういうのもありますが、ほとんどは、「だいたいこのへんからこのへんまでの中で、自分で書きたいと思う一年を選んで下さい」というお願いの仕方をして、私が調整しました。
メンバーの偏りはやはりあって、私の専門が和歌や古典学なので、その分野の研究者の割合が高いです。ですから、違う編者がやれば、違うニュアンスのものにはなったと思われます。それとも、誰がやってもおおむねは変わらないのでしょうか?
ひとつの実験的な試みですので、手間はかかりましたが、作っていく時はとても楽しかったです。また、自分がやるかどうかはともかく、なんらかの方で発展していけばいいなとも願っております。
拙著『不忍池ものがたり 江戸から東京へ』、拙編『漢文のルール』についても取り上げていただき、感謝申し上げております。
鈴木健一