2019年01月21日

「古典は本当に必要なのか」シンポの司会として

1月14日に明星大学で行われた標記シンポの模様は、Youtubeで公開されています。司会をしました。いろいろと考えるところがあり、総括をしたいと思っていましたが、いろいろなことが重なってなかなか書けないでいました。しかし、これ以上遅延するのも問題かなと思い、やや雑ですが、まとめてみたいと思います。

既に、ブログ等で貴重な「まとめ」やご意見がいくつも出ておりますが、主催者の方でまとめられるであろう報告書にフィードバックされることと思います。シンポ開催前から、非常に関心を集めておりましたが、シンポ後もアーカイブ動画が公開されていたことと、ツイッターでハッシュタグ(#古典は本当に必要なのか)が一時上位ランキングに出たこともあり、シンポ参加者・視聴者以外までも、古典についていろいろ発言されるという、まったく意想外の展開となりました。これにセンター試験での古文出題(玉水物語)がこれまた話題となり、相乗効果もあったようです。

今回、とくに否定側で登壇していただいた、両先生にはまず深く御礼申し上げます。お二人が所属を名乗らなかったのは、所属先の見解と誤解されないため、ということだとうかがっています。主催者側の趣向ではありません。肯定派側で登壇いただいた両先生にも感謝申し上げます。そして、なにより、遠方からも含め、120名ほどの参加者の皆様に、心より御礼申し上げます。発言を希望されていた方はとても多かったのですが、司会の不手際で、取り上げることができなかった意見が多くありました。まことに申し訳ございません。

 このシンポジウムの模様にご興味のある方は、全体をまとめてくださったこちらのサイトを御覧下さい。また、討論の優れた分析としては、こちらがあります。他にも多くの方がブログで触れています。

 噛み合った議論を期待しましたが、論点設定の問題もあり、私の司会スキルの問題もあって、否定派と肯定派の議論は噛み合わなかったといえます。もっと言えば、否定派の論理の枠組で議論するのは、肯定派にはちょっと厳しかったのだと思われます。

 否定派の枠組は、教育全体の中での「古典」の「優先度」を再考せよということ。高校で必修から外し、芸術の一科目として選択にせよと。否定派が提示した問題提起のキイワードでした。もし否定派がこれをひとつに絞って(たとえば行列)きて、行列か古典か、それぞれがプレゼンして、どちらを選ぶかフロアに問う、という議論の方向がありえたかもしれません。この「優先度」は、教育の基本・基準は何かと言う問題と関わりますから、教育は何のために行われるか、という議論へ展開することになりますね。否定派は、経済成長・国際競争のための効率のよい教育という考え方ですね。肯定派はこの枠組ではちょっときびしかったわけでしょう。それと関わるのが「幸福」というキーワードでしょう。フロアから、両方の主張の中に、共通して指摘できるキーワードだという発言がありました。「幸福」ですから個人に即して言うわけですが、収入がUPすることか、精神的な幸福感か?、という選択です。しかし、この議論も、建設的に行う論点としては難しそうです。

 ではそうでない論点はなかったのか。私は「国語力」ではないかと思います。これが大事だということは両派に共通しています。英語でのコミュニケーション力やプレゼン力も「国語力」が大事であることは否定派もおっしゃていました。それなのに「古典」が「国語力」にどう関わるかが、議論されませんでした。この問題は、「古典」を「芸術」科目にしようと提言する否定派の考え方とも関わります。

 私は「古典」必修の主張として、「国語力」の水準の維持、あるいは向上のためには古典教育が必要だからだ、ということを申し上げたく思います。つまり、現代文理解のためにこそ、古典そして古典(文語)文法が必要だということです。

 現代文と古文は切り離されているわけではなく、接続しています。「走る」「防ぐ」「立つ」「見る」などの動詞や、「多い(多し)」「古い(古し)」などの形容詞、「顔」「足」「水」などの名詞など、現在使っている言葉と変わらない言葉(基礎語)が沢山あることはご存じでしょう。現代語は、新語もたくさんありますが、古語から続いているものの方が基本用語には多い。古語は死語ではないのです(ラテン語とは少し意味が違う)。古文の構造は現代文と全く同じ、その点はなにも難しいことはありません。文語文法は、現代語文法よりも法則性が強い。むしろ現代語文法よりも本当は学びやすい。しかし、むずかしく感じるのはなぜか、それは必修レベルで、やや多くの語彙や文法を教えすぎているからではないか、と思います。助動詞などはもっと減らしてもいい。源氏物語などの中古作品と、中古文に連なる徒然草や擬古文を中心に置いたために、敬語をはじめとして、ややこしいことをたくさん教えなければならなかったわけです。高校における古典必修を私は主張しますが、あくまで現代文を理解するための基礎として考えるということから、柱になるのは、漢文訓読文のスタイルではないかと思います。現代の論理的な文章にもよく出てくる「いわんや」とか「なきにしもあらず」とか、そのような言い回しは、現代語訳ではなく、そのまま使えるようでありたい、そのためには、現代文にも使われるような語句がたくさん出てくる読みやすい古文を必修で学ぶことでしょう。源氏などの中古文はむしろ選択で学ぶようにすればどうだろうかと思います。古典は情緒的だという先入観も、これまでの教科書のテキストの編成に原因があるのではないでしょうか。漢文訓読的文章を中心に、より広い分野のテキストを配列すればよい。

 「古典」が芸術科目にできない、というのは、そういう意味で「古典」とは文学作品に限定されないからです。宗教思想・歴史学・本草(薬草)学・天文学など、文理を越えた古典が沢山あります(福田氏のプレゼンでも)。それを読むのです。すでにこれもどなたかが指摘していましたが、古典とは古いと同時に、現代にも通じる普遍的なテキストです。「典」がその意味を持ちます。逆に現代にインパクトをもたないもの、読む価値のない文は、単なる歴史的文章であって、古典ではない。古典とは読み続けられる価値のあるもので、しかも時代時代によって、その価値を発見されつづけるものです。百年読み継がれれば、つまり漱石あたりから、もう古典といってよいでしょう。淘汰されてきてなお新たな価値を見いだされ続けているものが古典です。それは現代語訳で学ぶだけでは無意味です。現代語訳とともに学んでこそ意味があります。
 古典は、文章自体が、重層的に出来ているものが多い。文章の背後に和歌や、それより古い古典が隠れているという時間的重層もあるし、掛詞や連想ということばレベルの重層もあります(前田雅之氏の「記憶と連想」発言参照)。これは現代語訳では消えてしまう。だから原文で読むことが必要。その粹(すい)は、和歌でしょう。『和歌のルール』という本がありますが、かなり売れています。和歌は情緒的だと思われがちですが、そうではない。きわめて知的で論理的。和歌のルールのマスターは国語力の基礎たりえます。また漢文は、もともと漢籍をよむために工夫された日本語の文体。それを読み下したのが漢文訓読です。この漢文を学んだおかげで、日本人が明治以後西洋の抽象概念を漢語で次々に造語した。この造語力、いまでも必要ではないか。「共創」などという漢語も結構新しいですよね。それだけではなく、「しかるに」とか「けだし」とか、今でも普通に使われることばは漢文訓読から。またちょっと前の法律を読んだり、文書を読むためには、漢文力が絶対に必要となります。ビジネスでもそれは必要ではないか。
 しかも、それらの漢文・古文は、何百年も価値を認められ続けて生き残ってきたものでありますから、内容的にも今読んでも必ず学びがあります。ここでは詳しく触れませんが。
 
 でもポリコレがあるでしょう?と反論されるかもしれない。古典にはもちろん古い価値観や道徳観があります。ないと言ってはいない。しかし、それは古文だけではない、昭和、いや平成でも、そういう作品・映画・ドラマ・漫画はいくらでもあります。それらを教室で読むときには、当然それらを注意して読む。これは教師の役目です。古典で、男尊女卑や年功序列をすり込まれるというのは、かなり無理のある主張と言わねばなりません。むしろ、逆に気づきを与えるチャンスだとも言える。ここはだから論点にはならないと思います。

 このように書いてくると、否定派のご主張は自体あまり有効ではないように思われるのですが、いかがでしょうか。にもかかわらず、私自身の古典教科書観は、否定派と案外近いようにも思います。もし高校必修が攻防線でなかったら、同じ陣営だったかもしれません。それは、私が否定派になったというよりも、否定派のおふたりが肯定派になっていたのでは、という意味ですが。

 なお、フロアから出た意見で、すでに古典は高校によっては、ほとんどやられていない。現代語訳で教えられているところもある。そういう現実を見ないで議論するのはエリートの議論であるという批判、また教科そのものの枠組を考え直すべき時に来ていると思うがいかがか、という意見がありました。この意見は、SNSのご当人の書き込みを読み、それをふまえて動画を見直すと、「すべての先生に」、つまり私自身にも向けられていたようなのです。それをネグレクトした形になったことで、私への人格批判もありました。私へも回答を求めていたとはちょっと気づきませんでしたし、気づいたとしても、他の質問者との間で私が答える場面はなかったので、答えなかったとは思いますが、この場を借りて、お答えしておくと、エリートの議論というのはその通りで、現状すでにこうなっているというご教示はありがたいです。もっともこの討論は、直前になって論点が定められたので、司会の私を含め、現在の高等学校の国語の現場についての情報が不足していました(どちらかといえば、古典の意義とは何か、という議論を当初は想定していたので。しかし否定派の論理を傾聴するという趣旨で、高校必修の論点となりました)。また教科の枠組については、私はさきほどの理由で、古典は「国語」だと思っているので、その枠組を変える必要はないという考えです。この問題を論点にすることも出来ましたね。
 
 なお主催者は報告書(書籍になるかどうかわかりませんが)を作成すると思いますので、そこでまとめをされることと思います。やや拙速ですが、以上です。

 



 
 
posted by 忘却散人 | Comment(10) | 情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
飯倉先生、服部仁です。ご意見の中にもありましたが、最近、学生の古典学力が落ちていることを痛感いたします。勤務先は、ずっと受験科目も偏差値も、さほど変化しておりません。変体仮名も基礎科目で一応教えております。しかし、5年ほど前から版本のコピーでの授業ができなくなり、1,2年前からは、『八犬伝』や『弓張月』の活字本のコピーでも、授業になりません。原因として考えられることは、学生の頃、恩師が「古典文法の嫌いな先生が教えて、古典が好きになるはずがない」と言われたことに尽きるように思います。
Posted by 服部仁 at 2019年01月21日 09:18
まあ、そうですね。しかし、どんな人が教えても、古典が嫌いにならないような、教科書と指導マニュアルが求められているわけですね。
Posted by 忘却散人 at 2019年01月21日 20:59
シンポジウムに参加した者です。
飯倉先生の雑感で提案されている内容を見て、考えてみたことがあったのでブログ記事を書いてみました。

https://jewelbox.hatenablog.jp/entry/2019/01/22/204915

もしよければ、参考までにご覧いただけるとうれしいです。

私は国語教育とは全く関係のない人間ですが、このシンポジウムに参加して、国語教育の現状や学習指導要領の内容など、私自身多くのことを学べました。
私にとっては、それが何よりの成果です。
ありがとうございました。
Posted by なか at 2019年01月22日 20:55
なかさん。

精緻な考察、ありがとうございます。非常に勉強になりました。反対派の先生方とも、非公式に議論を重ねているところです。この件については、また改めて発信したいと思います。取り急ぎ御礼まで。

Posted by 忘却散人 at 2019年01月22日 22:10
最前列で質問した者です。

丁寧な司会、ありがとうございました。噛み合わない議論を発散させずに進めるのは、至難の業だったと思います。

わたしのブログに書いたものが、あちこちに転載され、そこでも反響が出ています。

なかでも、「国民統合の一手段としての古典教育」という観点は、(良し悪しは別として)鋭いと思いました。アイデンティティに関わるもの(言語、歴史、領土)から古典教育の重要性を定量化する論点なら、否定派とも噛み合うかもしれませんね。


■わたしのブログ記事
http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2019/01/post-b483.html

■はてなブックマークコメント
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■BLOGOSに転載
https://blogos.com/article/352294/

■ガジェット通信に転載
https://getnews.jp/archives/2115791

■ニフティニュースに転載
https://news.nifty.com/article/entame/movie/12259-173585/
Posted by Dain at 2019年01月26日 09:22
Dainさん

コメントありがとうございます。非常に考えさせられる、素晴らしいブログ記事でした。噛み合わないことを可視化した、だけかもしれなかったシンポですが、これだけの関心を集め、さまざまなご意見をいただいたことが、最大の収穫だったのかもしれません。これらの反響を含めて、私なりに、再度考察をしたいと考えております。
Posted by 忘却散人 at 2019年01月27日 10:57
日本の学術や教育の在り方の再設計には この手 草の根 議論大事ですね。 いろんな観察ができたので 面白かったとは思います。 飯倉先生の記事に対して 軽い反論 @日本語力の向上に古典は有用? 現代語を論理国語中心にきちっとやったほうがいい。A ポリコレ的汚物はほかにもいっぱい? 学校で教えるものは モラルの規範なので汚染されていてはいけない。  シンポに出ての発見。 @ 国語教育関係者は デベートができない。 議論をすることを教えられていない。 国語教育の範疇であるとの認識も希薄。 これでは、日本人が プレゼンや議論が下手なのは当たり前。 国語教育の大幅な見直しの必要性を感じました。 A ジェンダーフリー社会を実現するうえで 古典教育は阻害要因であるにも関わらず、 意外と?女性研究者が多い。 しかも そのシンポの後の意見交換会とかで対話してみると、 それなりに優秀な女性研究者も多い感じがした。 日本全体としては この分野に 女性の人的資源が偏在するのは ”無駄”なので、女性が国文とかを目指すのではなく、 GDPにもっと貢献できる IT系の言語的 仕事に貢献できる 教育フローシステムの再設計がいるのではとも思えた。 経団連や文科省はここらに知恵を絞り 少子化の中での 出来る女性の有効活用を再デザインすべきかも?
Posted by 猿倉 信彦 at 2019年04月27日 11:24
猿倉先生。コメントありがとうございます。この議論、私なりに再考したいと思っています。「反論」に対する私の見解はしばらくお待ち下さい。ちなみに今の40代以下の日本文学研究者には、国際的に活躍していると言える優秀な方多いです(英語もできる)。日本近世文学会だともう女性の数は5割に迫っているのではないかと思います。とくに若い層は当然ですが女性が多く、しかも優秀。理系もこれからどんどん増えるのではないですか。
Posted by 忘却散人(飯倉洋一) at 2019年04月27日 12:11
最近 国際交流関係で 外大系の日本語教育の関係者と仕事してるんですが、ここも出来る若手女性多いですね。 少子化の中、できる女子さんの活躍の場を 拡大することは大事なことですが、分野や学部による偏りありますね。 国文と違って ここは日本のビジネス視点ではリアルなニーズあるので、実学マインドです。 文系の研究は基本的に 個人商店型なので 社会の仕組みと独立に女性が活躍しやすい環境ではありますね。 また、実験経費や装備も集めなくてもOK、公務員や教員系であれば、男女格差も小さい。 その意味で 出来る女子さんが集まる傾向は理解できる。 ただ GDPや日本の競争力に直接は影響しない部分なので、 経団連的視点ではもったいない。 人的資源の過剰投資におもえます。 これは 逆に言うとそのての”役に立つ領域”で女性が 大事にされていないからそうなってるのでしょうね。
Posted by 猿倉 信彦 at 2019年04月27日 13:00
>猿倉 信彦先生
これは 逆に言うとそのての”役に立つ領域”で女性が 大事にされていないからそうなってるのでしょうね。

おっしゃる通りではないでしょうか。ポリコレ色の強い古典を研究する業界の方に優秀な女子が集まるというのは、皮肉ですね。
Posted by 忘却散人 at 2019年04月27日 13:28
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