2019年03月02日

白話小説の時代

 丸井貴史さんの『白話小説の時代−日本近世中期文学の研究』(汲古書院、2019年2月)が刊行された。まずは慶びたい。『上方文藝研究』の同人でもあり、遠方から2年連続来ていただいているし、かつては金沢から読書会にも来ていただいていた。そして、授業で『英草紙』を読んでいるのだが、丸井さんが上文に掲載してくれた『英草紙』の解説はとてもいい入門になっているし、また論文にも学生がよく言及するところである。非常にこのごろ助けていただいている。
 さて、この本の意義だが、その書名がよくあらわしているように、十八世紀を「白話小説の時代」と見立てたことである。十八世紀は私も自分の専門とちかいので、大いに議論したいところだ。そういう見方もありだ、と思う。丸井さんのポジションから言えば、そういうことになる。実際、いろいろな要素があるなかで、やはり「白話」だというところは、この本の最後の論文(書き下ろし)で熱く語られている。ここに私の論文をたくさん引いていただいていて有り難かったのであるが、私は、丸井さんの顰みに倣って、近世中期は「奇談の時代」だ!と言いたくなったのですよ。いい意味で刺激を受けた。なにしろ、考えてみたら、書名(巻名)として認められる「奇談」の初出は、白話小説の功績者の岡島冠山の「和漢奇談」なのである。白話と奇談は実は関係が密なのである。
 この本のいいところは、解決には到らないにしろ、多くの問題系を提示しているところである。
 たとえば、都賀庭鐘をはじめ当時の知識人が白話小説を校合した上で小説に取り組むと言うことの意味、ただしその意味は解明されてはいないが。
 また『太平記演義』の読本史上の意義。不遇の作者像の問題と、読本初期の「史」はなぜ太平記ばかりなのかという視点。演劇のことは考えなくてもいいのかな。忠臣蔵とか。というのが素朴な感想である。
 また吉文字屋の浮世草子は実は女性向けに作られたのではないのかという仮説。女子用往来や百人一首(ちなみに百人一首は一種の往来物である)を多く手がけた吉文字屋だから、なかなか魅力的であるが、散らし書きに往来物よろしく読み順番号をつけているという一例だけでは、なかなか仮説の域を出ない。散らし書きの手紙は男が読むものであり、男に教えているとも言えるだろう。
 しかし、素晴らしいのは、そういう魅力的な問題提起が沢山行われているということだ。
 もうひとつは中国白話小説そのものの諸本調査。中国留学の成果を活かして、中国にある本をかなり調査しているし、パリの本も調査している。この諸本調査で、読本の典拠研究はぐっと精度を増すであろう。
 他にも、私にとっては貴重な指摘がたくさんあった。学恩とはこのこと。ありがとうございます。

 ところでこの本のあとがきは、丸井さんの師匠の木越治さんの「中国に行け」という言葉が、彼の人生を決めた話が書かれている。研究者というのは本当に不思議で、決定的な「言葉」や「出会い」によって、その人の研究が運命づけれらるのである。

 
posted by 忘却散人 | Comment(0) | 情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。