2019年05月04日

木越治さんの問い

 2018年12月に出た『北陸古典研究』33号について書く。
 木越治追悼特集が編まれていて、教え子や研究仲間がそれぞれに木越治の投げかけた問いに答えている。
 丸井貴史・紅林健志・奥野美友紀・高橋明彦・山下久夫・山本一のめんめんである。
 北陸古典研究会は木越さんが立ち上げた研究会である。私も1度だけ参加したことがある。その時は、小林一彦さんや山本淳子さんも発表されたと記憶する。九州や関西のいくつかの研究会に参加したことがあるが、一番尖っている研究会だな、という印象で、それはやはり、木越さんとそれに共振する人々の「文学」への熱い思いに由来するものと思われる。
 木越さんは、今の、ご自身の、作品に対する感覚を大事にされていたと思う。「文学」とは、「語り」とは、という彼の問いは、すべて、いまここのご自身から発せられている。
 追悼の文章も、「読む」とは、「語り」とは、「面白さ」とは、「文学性」とは、という木越さんの問いを受け止めて、各人が真摯に答えたものと捉えられる。紅林さんの「〈つまずき〉と〈語り〉」では、ちらっと「菊花の約」の語りをめぐる木越飯倉論争が取り上げられている。紅林さんは、『雨月物語』全体の語りを、そして近世小説全体についての〈語り〉についてどう考えるかを詳しく説明せよという宿題を私に下さった。感謝申し上げるが、私はそれについて書くことはない。今の私には、「文学」とは、とか「語り」とは、という問いはない。「菊花の約」の場合も、あくまで近世の読者はこの話をどのように読んだか(もちろんその読みは多様だろうが、多様の中の可能性のひとつとして)、という着想で考えた結果、語りの問題が不可避となったわけであり、最初から「語り」とはという問いがあったわけではないからである。
 しかし、木越さんは、「それも飯倉の(今の)読みだ」と言われるのである。そう言われてみれば、その通りなのだが、なぜ私がそういう読みをするかという出発点は、大いに木越さんとは違うのである。
 だが、江戸時代の人はどう読んだか、という考え方は、私の師から学んだと言ってよいが、元々私は近代人だし、また「読み」の人間なので、本当は木越さんの言うとおりなのかもしれない。江戸時代のことも本当はあまり知らないしなあ。だけど、そういう私が、今の感覚で放恣な読みをすれば、他人が読んでも多分どうしようもなくつまらないだろう。しかし木越さんの読みは、凡百の秋成作品論とちがって、無視できない存在感がある。そういう木越さんの「読み」を経た作品だから、論じたくなるということは否めない。私の作品論は私が後輩だから当然だが、木越さんの読み方が大きな影響力をもたらしている作品を扱ったものが多いのだ。「菊花の約」「血かたびら」「海賊」「二世の縁」などなど。
 書いているうちに、わけがわからなくなったが、この特集に触れて、やはり何かを動かされるのは、木越治さんの問いの魅力から私も逃れられないからだろう。
 
posted by 忘却散人 | Comment(0) | 研究 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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