2019年07月22日

大橋正叔『近松浄瑠璃の成立』

 先日のある会の二次会で、井上泰至・福田安典・佐伯弘次のお三方と同席したが、同世代だという。学会にいると、時々そういう話題になる。ちなみに、鈴木俊幸・山本卓・冨田康之・ロバート=キャンベル・高橋則子各氏あたりと私は同世代だろうと思う。さて、私より一回り上、昭和17年・18年生まれの世代も、ひとかたまりで優れた研究者がたくさんいるのだ。お世話になった方や、親しくさせていただいている方のみ挙げても、井上敏幸・若木太一・故中山右尚・井口洋・西田耕三・上野洋三・・・・と錚々たるひとたち。そして大橋正叔先生だ。ちなみに、私が自然に「先生」と呼んでしまうのは、この世代までで、その少し下になる白石良夫・大高洋司・服部仁・廣瀬千紗子・渡辺憲司・故木越治・中嶋隆・・・・各氏に対しては「さん」づけになってしまう。
 で、九州の先生方は先輩でもあり、可愛がっていただいていたので、怖くはなかったが、関西在住の先生方は怖かった。大橋先生もとても怖かった。20年くらい前に天理大学で春雨物語の「血かたびら」の発表をやった時に、会場校責任者の大橋先生と電話で話すことがあって、「(君が春雨の発表するから)展示で富岡本出しておいたから・・・」と言われたときは、その言葉を深読みしすぎて、タラ〜っと来てしまったのである。
 しかし、2001年に大阪に来て、何年か奈良に非常勤で呼んでいただいたことがきっかけで、奈良女子大に集中講義で来られた先生を囲む会の際に、お声がけをしていただくようになり、その会にいらっしゃる石川真弘先生や大橋先生と定期的にお会いすることとなり、大橋先生がとても優しい気さくな先生だということがわかってきたのである。それからは、完全に私の甘えモードで、いろいろ相談などに乗っていただいたこともあるし、阪大の学会で講演をお願いしたこともある。そう、大阪大学のOBでもあるのだ。とにかく大橋先生のお顔をみると、かつては緊張していたのだが、今ではほっと安心するのである。いつも余裕の笑顔を浮かべておられることもその理由かもしれない。もちろん、天理大学では要職につかれ、あまりに仕事ができるために、なかなかやめさせてもらえなかったようだ(もちろんご本人がそういっているわけではない、はたからみての推測)。
 さて、前置きが長くなったが、大橋正叔『近松浄瑠璃の成立』(八木書店、2019年6月)である。
 重要な論文がいくつも収められているが、2つだけ触れておこう。まず「近松世話浄瑠璃における改作について」。これは阪大の國語國文学会でご講演していただいた内容。改作を通して見えてくる、近松の縦筋の堅牢さが、多くの改作を産んだこと。改作のポイントが「世話性」にあることなどを指摘する。講演の時は、それは近松に限らず・・・と、近世小説の世界まで縦横無尽に語られていたことを思いだす。
 では、近松作の作品の「世界」はどうなのか。「近松門左衛門と世界」という論文。「世界」という概念が狂言作者の意識に上るのは、近松よりあとのことであって、時代に即して考えるならば、近松作品を「世界」で分析するのは的外れだということになる。とはいえ、曽我物に関しては、近松以後の浄瑠璃史の展開から言っても、近松自身の曽我物の変遷をみても、一定の意味があると。しかし『太平記』物になると、「世界」というとらえ方ではとてもなかったように思われると。そういう警鐘を鳴らすものである。近松の自由さ、変幻自在な時代物の作り方は、論じる方もまた、「世界」に縛られては見えてこないというのである。「世界」と「趣向」は便利な分析概念であるが、心してかからねばならない。
 わずか2論文に触れたのみで、申し訳ないし、的外れなことを申しているかもしれませんが、お許しください。

 ちなみに一回り上ということで、日本文学ではないが、別格的存在は、ここまで何度もブログでも触れているが、フランス文学者の柏木隆雄先生である・・・。『上方文藝研究』でもなんでも、いつも刊行後すぐに読んでしまわれて、感想を投げてこられることがあって、私としては、映画を観る前にネタばらしをされている感があることもあるくらい、日本文学研究に関心が深い方である。
 
posted by 忘却散人 | Comment(0) | 情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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