2019年07月28日

濱田啓介『国文学概論』の偉業

 厚さ6センチ。1200頁超のとてつもない日本文学概論書が2019年6月、京都大学学術出版会から刊行された。濱田啓介先生の『国文学概論』である。「後記」に、出版にいたる経緯が記されている。京都大学学術出版会の八木俊樹さん(故人)という編集者のお勧めがあったようだ。濱田先生みずからおっしゃるには、「私がある対象領域についての求心的な研究者ではなく、あちらこちらへと発散的な性格であることを(八木さんが=飯倉注)了解しておられたのと、先の著書の内容には、様式論・伝達論のような言い方が有ったので、その点で特徴ある研究者だと思われたからであったようだ」と。八木さんが亡くなられたあとも企画は生きていて、濱田先生は、20年これに取り組み、余人の追随を許さない超大作を完成させたのである。手書きだっという。原稿は2014年に書き終わられ、それからさらに編集者との意見交換を繰り返し、2018年に完工したという。
 序章として「伝達論の立場から」という文章がある。国文学の概論が、現時点では、「国文学」とは何かというそもそも論から始めなければならないのは重々承知の上で、それを正面から扱えば、いま一冊の本が必要である、だから、様々な観点から国文学の範疇に入ると大方の了解を得ているテキスト群を、その作品という「もの」に即して、歴史的に通観するという立場をまず表明する。
 次に、「伝達」というキーワードで、文学を捉える。作者という発信者が、同意同感を所期して受信者に向けて、何かを伝える。そのときに、文学的言語技術を必要とする。「文学的価値とは、端的には言語技術の価値という事になり、それ以外の唯一の美学的基準はない」。作者から読者への伝達という点に着目するこの考え方に、時枝誠記の言語過程説などが影響を与えているような気もするが、いかがであろう。さすがに近世の作品については細やかである。最近、私は高山大毅氏の提言を受け、「雅俗」概念について再考すべきことを痛感しているが、濱田先生はどうだろう、もしかすると概論の中で「雅俗」の語を用いていないのではないか、と「期待」しつつ読んでいったが、やはり使っておられた。『仁勢物語』のところで。パロディの価値は、「雅俗両界を統合する発信者の言語技術の成果であり、文学的価値が成立する」と。とはいえ、どちらかといえばあまり使っておられないなと思う。そこに少し注目している。
 「言語技術」というドライな用語は、文学の評価を、主観的・心情的にすべきではないという姿勢の表れかな、とも思う。
 この概論の考え方をベースに、以下時代順・ジャンル順に文学史的な記述が行われる。部分的にしかまだ読んでいないが、どこを読んでも弛緩がない。そしてあくまで客観的な叙述を心がけている。
 近世文学までを論じきって、近代の入口まで来たとき、濱田先生は、「立ち留る」。そして、その時点で、さらに先に進んでいく「近代文学の後ろ姿」を望見して終章とする。見事な締めくくりである。
 幸いに、私は濱田先生を中心とする京都近世小説研究会に(時々サボっているけれど)20年弱参加し、濱田先生から様々な教えを受けた。またかつては中村幸彦先生宅の蔵書調査に加えていただき、読本を調査される濱田先生のノートを見せていただいた思い出がある。もちろんそのノートには圧倒された。大高洋司さんのプロジェクトでも俯瞰図的なことを発言されることが多かったと記憶する。先生は造本や書型や版元の営為など、現在でこそ主流となっている切り口を若い頃からお持ちであり、その背後には、ものすごく大きな構想が常にあった。今回の国文学概論はだから、出るべくして出た本だともいえるのだが、やはり、余人には真似の出来ない大業である。90歳を前にしての偉業に心から敬服と祝意を表するものである。
posted by 忘却散人 | Comment(0) | 情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。