2019年09月16日

シンポ「古典は本当に必要なのか」が、本になりました。

 今年の成人の日に行われ、大きな話題となった、明星大学人文学部主催のシンポジウム「古典は本当に必要なのか」。ついに書籍化され、文学通信から刊行された。書名は『古典は本当に必要なのか、否定論者と議論して本気で考えてみた。』。すでに店頭に並んでいるところもある。仕掛け人の勝又基氏の編。表紙には当日のパネリスト、否定派猿倉信彦氏、前田賢一氏、肯定派渡部泰明氏、福田安典氏、司会飯倉洋一の名前が記される。シンポジウムは活字化に伴い、読みやすいように若干の編集があるが、ほぼ完全に当日の模様を再現している。さらに当日シンポ後にとったアンケート・意見、さらに公開されたYoutube動画へのコメント欄に寄せられた意見も掲載、登壇者の「あとがき」、そして勝又氏の原稿用紙80枚におよぶ「総括」が加えられ、読み応えのあるものになっている。この総括がつまり、書名の由来である。勝又氏の本気度が伝わる内容である。

 人文学の危機が叫ばれはじめて久しい。人文学、あるいは文学部の危機を訴え、その存在価値を再確認して共有するシンポジウムが、諸処で開かれた。大阪大学金水敏先生(当時文学研究科長)の「文学部の意味」をあらためて問いかける卒業式のスピーチが大きな話題となったことも記憶に新しい。それらを通して、「あなたのやっていること何の役に立つの?」と問われ続けてきた文学部出身者・在籍者は、〈すぐには役に立たないけれども、人生に大きな意味を持つ文学部の学問の意義〉を共有し、「そうだそうだ」と溜飲を下げたのである。しかし勝又氏は、それは「身内の怪気炎」にすぎなかったという。本当の文学不要、古典不要の考えの人たちと議論してこなかったのではないかと。

 勝又氏が企画した「古典は本当に必要なのか?」は、少し毛色が違った。これまでの登壇者とちがって、古典に愛情も、存在価値もほぼ認めない、徹底的な否定論者を、パネリストとして招いたのである。SNSでこの企画が告知されると、大きな注目を浴びることになった。その理由は、ひとえにシンポジウムタイトルの過激さと、下手をすれば人文学が手痛い傷を負うかもしれないという容赦なさにあっただろう。チラシは「仁義なき戦い」の映画ポスターを完全にパクったデザイン(実はこれこそが古典の手法なのだが)、否定派論客対肯定派論客のデスマッチという触れ込みで前評判も上々。会場には百人を軽く越える人々が集まった。ネット上で読書家論客として知られるブロガー、歴史研究者でベストセラーを書いた著者の姿、大手出版社の文庫担当編集者の姿も見えた。
 議論は、高等学校の必修科目に古典は必要か、という論点に絞って行われた。企画者側(私も一枚噛んでいる)は、否定派の議論の土俵にあえて立とうとしたのである。否定派は、国際競争が激化している現代における優先度という観点から、GDPに貢献しない古典は必修ではなく選択(それも美術・音楽と同様芸術科目で)であるべきだとし、古い道徳的価値観を刷り込む古典はポリコレ的にも問題があり、これを墨守しようとするのは既得権益にこだわるポジショントークだと断じた。文学研究擁護派は、こんな厳しい批判にさらされたことがなかったのである。一方の肯定派は、同じ土俵の上に立つのを回避し、古典の面白さや古典を読むことの幸福感などを主張した。議論はかみ合わなかったのである。会場で意見分布をアンケートしたところ、議論後に、否定派に傾いた者数名。その逆はない。数字としてはわずかではあるが、ディベートとしては、否定派の勝利と言わざるを得なかった。現在進行形で、シンポジウムが中継されていたこともあり、twitterでは、ハッシュタグ「#古典は本当に必要なのか」が、一時ツイートのトレンドに上がる勢いを見せた。その後、シンポジウム傍聴記がいくつもネット上に上がり、私自身も私なりの総括をブログで行った
 今回、これまで沈黙していた主催者勝又氏が、総括として長編論考を付載した。当日は出ていない論点がいくつかあり、賛成派として、否定派にしっかり向き合う議論になっていると思う。これをふくめて、今後行われるであろう、さまざまなレベルでの議論のたたき台としていただければ、関係者として非常にありがたい。私自身の考えの一端は、「あとがき」に述べている。
 
 
posted by 忘却散人 | Comment(0) | 情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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