中野三敏先生が逝去された。三鷹の禅林寺で、通夜と葬儀は行われた。森鷗外と太宰治の墓のあるお寺である。通夜のあとの席で、可愛いお孫さんが促されてスピーチをされた。「おじいちゃんは、ぼくをよくくすぐるんだけど、くすぐっているおじいちゃんの方がいつも笑ってた」。目に浮かぶ光景、先生のお孫さんへの愛情がこれ以上ないほどよく表現されていた。
何人かの教え子が弔辞を読んだ。ロバート・キャンベルさんは、中野先生の声が、最近弱々しく、発声が辛そうだったことから語り、朗々と通るお声を聞けなくなることが悲しいと結んだ。川平敏文さんは、先生の後継者としての責任の重さを受け止め、ご家族の介護にも謝辞を述べた。そして宮崎修多さんは、門下生にも促し、「仰げば尊し」を、切々と歌った。
多くの門下生を育てられた中野三敏先生。教え子一人一人の性格やセンスを観察し、適切にアドバイスを送り、叱り、放任すべき時は放任された。振り返ると、それはあまりにもお見事であった。私はそのことへの感謝をお別れの言葉とした。
みんなよく叱られてたよね、と野辺送りの場でも、盛り上がった。中野先生は柔和で優しいイメージがあるが、ここぞという時にきちんと叱って下さる先生だった。なかなか真似できない。
教え子だけではない。中野先生を慕い、教えを乞う研究者はとても多い。先生は、惜しげもなく、ご蔵書を貸し与え、知見を伝えられ、ご自宅に招かれて本をお見せになることもあった。とくに若い研究者には、懇切であられた。
先生は、「人好き」で、どんな人にも面白いところを見つけて、その人の居場所を作ってくれるようなところがある。社会常識的にはちょっとどうかなあというような言動をする人に対しても、寛容で、面白がり、排除しないのである。先生の真骨頂である「畸人」の伝記も先生の「人好き」が原点だ。
先生を囲む食事会はいつも楽しかった。なぜだろう。誰かの話をしているのだが、ほとんどの場合、その人の面白いところを愉快そうに、愛情をこめて話されるのである。だから、その場は温かくなる。研究会が終わっての夕食会に、「今日は僕もいこう」とおっしゃると、みんな大喜びだったのだ。
もう一度、そういう日が来ないかなあ、と思っていた。でも来なかった。誰かが「重しがなくなる」と言った。
2019年12月06日
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