2019年12月22日

国語国文学的思考

 投稿タイトルは、白石良夫さんの新刊『注釈・考証・読解の方法』(文学通信、2019年11月)の副題である。ストレートど真ん中に来た感じ。
 国文学(私らの教室では日本文学)、とくに前近代文学の研究の基本は、注釈・考証・読解である。いわゆる「演習」科目では、ここを鍛える。それは、この本の帯にあるように、研究対象である「古典」テキストを、昔の人がどう読んでいたかを追体験するために行うものである。注釈・考証・読解では、現代の我々の思考や感性をいったん置いて、同時代の読者になりきることが求められる。作者になりきるのは難しくとも、読者にはなれるかもしれないのである。
 これにより、我々の持たない江戸時代人的な知識・江戸時代人的な思考に到達することができる。現代から見れば荒唐無稽な知識であり、現代からみれば首をひねる思考であっても、とりあえずそれを明らかにし、踏まえることからすべてを開始しなければならない。一知半解に、性急に、正誤や価値を判断してはならないのである。その作業を続けることによって、江戸時代的な、つまり我々にとっては未知の世界が開けてくるのである。これは、外国文化を学ぶことや、宇宙の謎を解明することと、なんら変わりのないあり方である。
 しかし、これを意識的に方法として身につけるのには時間がかかる。また、もしかすると人によっては同じことを目指していてもやり方が違うかも知れない。ここに書かれているのは、白石流の注釈・考証・読解の方法である。
 源氏物語や徒然草に出てくることばの注釈が実践例のひとつである。従来の本文校訂および本文解釈を否定して、周到な手続きによる別解を提示する。小川剛生さんの『徒然草』(角川ソフィア文庫)で、採用されたという。
 そのような実践を論文として発表し、それらを集成したのが今回の本である。学ぶところが多いし、国文学を学ぶ学生そして研究者にも是非読んでいただきたい。
 注釈・考証はともかく、「読解」となると、江戸時代人の読書の再現というのは難しくなる。江戸時代の読者の「読み」が一元的とは限らないからである。いろんなキャラクターが出てきて、役者を評する評判記のあり方を思い浮かべるまでもなく、江戸時代の読者の「読み」もまた、多様であろう。かつて「菊花の約」をめぐって、故木越治さんと論争になったこともあるが、木越さんは「近世的な読み」というものを認めていなかった(と私は受け取った)。「読み」はすぐれて近代的なものだというのである。そのあたり、白石さんはどうお考えであるのか?たとえば、西鶴の武家物について。一度おうかがいしたいところである。
 実はこの本は白石さんから献呈していただいたが、その添え状に「返礼はいらないが、ネットでの厳しい批判は歓迎」という意味のことが書かれてあった。ネットでレビューを公けにしている人って、私と川平敏文さん以外には、あまりいないので、私に対する挑発?ではないかなどと、意識過剰となってしまったが、まあそんなこともないだろう。初出は大体読んでいるつもりだが、今回きちんと再読しないまま、この文を書いたこと、申し訳ありません・・・
  
 
 
 
 
 
posted by 忘却散人 | Comment(0) | 情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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