2020年03月20日

川平敏文『徒然草』

 川平敏文さんの『徒然草 無常観を超えた魅力』(中公新書、2020年3月)が出た。「出た」というのは川平さんのブログ閑山子余録の紹介パターンだということは、川平ブログの読者ならわかっていただけるだろう。
 副題を見れば、そして帯を見ればわかるように、中学・高校の教科書などで「無常観の文学」「隠者の文学」というイメージが定着している『徒然草』を川平流に読んで、『徒然草』の意外な魅力を提示しようとした本である。その試みはかなり成功していると思う。
 『徒然草の十七世紀』(岩波書店)という著書があるように、川平さんの研究は『徒然草』がどう読まれてきたか、という注釈史・享受史を柱とし、そこから近世思想史・近世文学史を読みかえるものである。本書もその延長線にあると思うが、最新の研究をとりこみつつも一般読者を意識し、『徒然草』の(やや風変わりな)入門書としても好著であろう。
 無常観・隠者の文学という教科書的イメージは、実は近代以降のものであることを、享受史的な観点から明らかにする。ではどのように読まれてきたのか。たとえば文学書というよりも故実書としてとか、四書の注釈と同列に近世初期の儒者が注釈していたとか、帯に書いているように、恋の指南書という側面や、落語的な趣向、その中に確としてある教訓性など、江戸時代の読者の読みを通して、『徒然草』の魅力が明らかにされる。とりわけ序段の「つれづれなるままに」の「つれづれ」についての解説が白眉である。九大学派らしい実証的な手続きを経て、「つれづれ」とは、本来の「孤独」から「存在の欠如」(寂寥)そして「行為の欠如」(退屈)と意味が広がっていったとする。そして、近代以降の多くの注釈書が現在にいたるまで「つれづれ」を「所在ない」「退屈」の意味でとっているという。この間あざやかな叙述であるが、第6章で明らかにされるように、近代以降もむしろ西洋文学の影響を受けた文学者らが「孤独」の意味で解釈しようとしていたことも事実である。しかしその「孤独」は、西洋的な文学観に基づくもので、兼好本来の「つれづれ」とはまた違うようだ。「つれづれ」の解釈についての解説を首尾に配したのは、なかなか戦略的である。
 また、『徒然草』に見える多面性、両義性をどう考えるかという点については、語り手の仮構性、つまりその都度、その主張に適した主体に「なりきる」という叙述法なのではないかという。これはさもありなん。題詠における和歌の演技性(渡部泰明氏『和歌とは何か』)につながるところだ。兼好も歌人なので。
 帯にある「落語の原型」というのはどうだろう?と首をひねる向きにも、幕末の落語家の証言をエビデンスとして説得力がある(詳しくは本書参照)。
 とにかく読みやすい。現代語訳を多用し、古典が苦手であってもすらすら読める。小川剛生さんの『兼好法師』との併読が効果的だろう。
 さて仄聞するところによると、今年春の中世文学会は、『徒然草』をめぐるシンポジウムが開催されるらしく、川平さんもパネリストとして招かれているという。実はその日は確か日本近世文学会とバッティングしているので、タイムシフトで視聴できないかなあ、などと期待するのであるが・・・。
posted by 忘却散人 | Comment(0) | 情報 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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