『「国文学」の批判的考察』というタイトルの本が出た。文学通信。2020年3月。空井伸一氏の論文集で、副題は「江戸のテキストから古典を考え直す」というものである。いただいて1ヶ月以上たってしまったが(もっともっと紹介が遅れている本がたくさんあるが)、この本はコメントをさぼりつづけている訳にはいかない理由がある。
なにせ、著者の批判の矛先は、この私に向かっているからなのだ(がーん)。もちろん私だけではないが、かーなり私が狙われている。正面から批判される対象になるとは、研究者冥利につきる・・・嬉しい・・・だがやはり、言われっぱなしというわけにもいかないので。
序の「江戸のテキストを読むということ」。書き下ろしである。ここで私が標的になっているのだ。
著者は秋成研究の現状に触れ、かつては『雨月物語』『春雨物語』だけが論じられ、世間を白眼視した「頑固おやぢ」、反骨などというイメージで語られていた秋成の文業が、近年総体的に捉えられるようになり、歌人・国学者としての業績が前景化し、そこから見えてくる春雨物語像も変わってきたと。ありがたいことに、その流れを作った一人に私がいるという認識をされているようで(その前からたくさんいらっしゃいますが)、そういう秋成観によって、テキストは閉じられたものになり、「言ってしまえば内輪受けの同人コンテンツのようなものだ」と。同人コンテンツだって、誰かが見出せば画期的な文学テキストになる可能性あるでしょ?という突っ込みもしたくなるが、これは私の論が未熟であるがゆえのことでもある。写本でないと見えてこない部分をとりあげて指摘したものを、それは普遍的ではないと言われても困るわけだ。近代的な読み方では見えないところを指摘しているのに、それは近代的な読み方では耐えられないと言われているようなものだ。だが、写本でごく少数の知人にしか流通していないから開かれていない、というのは形式論だし、まして「出版する可能性があった」(『春雨物語』の出版を許している秋成の新出書簡を紹介した長島弘明さんの論文をふまえる)とたんに「開かれたテキスト」になるというのも、飛躍である。写本が開かれていないのであれば、中世以前のテキストはどれもこれも本来開かれていないテキストということになってしまう。
とまれ、意図的なのかそうでないのか、こちらが言ってもいない、考えてもいないことを「幻視」して、「國文学」像を作り上げて批判されても、それは的外れなんですけど・・・と言うしかない。ちなみに、p20に、「飯倉の「絆の文学」に言うところの」という言い方があるが、私は「絆の文学」という言い方をどこかでした記憶がないのだが・・・。「見落とされてきたことを認識させるために、これまで評価されてきたところを引き落とす物言いは筋がよいとは思えない」とも言われているが、『雨月物語』の評価を引き落とすような物言いをどこかでしているだろうか?『雨月物語』のへんてこりんな読み方は引き落としたいが・・・それさえもしていないと思うが。
そもそも、私じしん「国文学」という言い方が好きではなく、自分ではまず使わない。空井氏のいうように「国文学」の中にある「尚古主義」とか「過去の美化」とか、「ナショナリズム」への志向といった、まあコンサバティヴな部分を、私自身も批判的にとらえてきた。そういう陳腐な「国文学」像の中に勝手に押し込められては迷惑である。
和本リテラシー普及活動についても、「失われた過去を理想として仰ぐ」ものという空井氏の理解は的外れである。本来和本リテラシーとは、眠っている膨大なテキストの掘り起こしのために必要な技術として、普及をめざしているものである。日本文学研究という狭い範囲のことではなく、古地震研究のための歴史文献の読解にも必要なものである。いわば未知の世界の探検道具であり、過去を向いたものではない。専門家だけではなく、一般の人が、これだけインターネットで歴史的典籍画像が提供されている現在、それを読めたら楽しいではないか、可能性が広がるではないか。
言っておくが『雨月物語』や『春雨物語』には時代を超えた普遍的な価値があると私も思っている。それを、どの時代にあってもきちんと読めるようしてきた、また未来にあってもそうするのが研究者の仕事である。校訂・註釈・現代語訳。仮に、雨月物語の稿本が出てきたら、それを解読し、校訂し、註釈できる能力があるのが研究者である。そうした校訂本文を読んで、専門外の方に普遍的な文学として読んでいただくのは研究者の悦びである。もちろん研究者自身がそれをやって悪いことはない。しかし、研究者がそればかりやっているわけにはいかない。未来の日本文学研究者も、活字化された本文、校訂本文が本当に正しいのか、註釈はそれで正しいのかを検証する能力を持っていなければならないのである。
なお本書には「菊花の約」論が収められていて、そこでも私の論が俎上に載せられている。ありがたい。これへの反論もしないといけないのだが、これはまた機会を改めることにしよう。
2020年05月04日
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