荒木浩編『古典の未来学−Projecting Classicism』(文学通信、2020年10月)。これも昨年出た日本古典学の本の中でも看過できない1冊である。本書は、国際日本文化研究センターで荒木浩さんが主宰した共同研究「投企する古典性−視覚/大衆/現代」(2016-2019)の報告書と位置づけられる。40名を超える執筆者による867頁におよぶ論集である。"Projecting Classicism"の訳語が「投企する古典性」であるが、英語の方がむしろイメージが湧く。〈実存主義〉がもてはやされた1970年代ならともかく、今この時代に「投企」という言葉は一般には難解であろう。だが、あえてこの言葉を使ったところに、荒木さんの狙いもあったに違いない。
私もこのプロジェクトにお声がけいただき、わりと早い時期に発表もした(2016年12月、慶応大学)。その年に客員教員としてお世話になったハイデルベルク大でのくずし字教育実践についてだったと思う。同じ回に発表された渡辺麻里子さんと面識を得たのはこの時だったな。その後、4年間で何度か研究会に参加し、さまざまに刺激を受けた。日文研だけあって、学際的・国際的で、これまでの研究コミュニティとはひと味違っていた。
この共同研究が進行している間に、私は「古典は本当に必要か」論争、いわゆる「こてほん」論争に関わることになった。古典に未来はあるのか、ないのかを真剣に考えざるを得なくなり、本プロジェクトのテーマが重なってきた。実際本書第3部「古典を問う/古典を学ぶ」の竹村信治・飯倉洋一・渡部泰明の三人がこの論争について書いている。竹村さんは論争に参加はしていないが、それだけにこの論争を厳しく見つめている。こてほんシンポジウムの意義を「価値像の対立局面を開示したところにあった」(そこにしかなかった)と見て、次の局面に向けて準備することを提言している。そして、肯定派・否定派がともに聖典的アーカイブ的古典観を脱していないことを批判し、現代の我々が開く可能性のあるテキストこそが古典であるという認識をもつこと、その「可能性」への信頼の醸成が教育として必要であり、その醸成は、テキストとの対話による驚きと発見の中にこそあり、その具体化が必要だという。それが「古典性の投企」である。さすが竹村さんで、私などと違って荒木さんの狙いを正面から受け止め、理解している。
冒頭荒木さんの序論。いつものように、というか、これは余人の真似出来ない荒木さんの名人芸だと思うが、エッセイ風の語り出しから、予想のつかない展開をしつつ、膝を打つような着地をするスリリングな文章。コロナ禍の今、まったく未来が見通せない移動点と、キリシタン激動史の時期に書かれた徒然草の注釈書の貞徳著の「なぐさみ草」の書かれた時点を重ね、貞徳が徒然草を未来に投企したことを浮かび上がらせる手際には唸らされる。コロナ禍の今こそ、古典を未来に投企する、古典の未来学を考える時なのである。
ほか、触れたい論考満載だが、古典の現代そして未来における意味を考える全ての人は是非手にとってもらいたい。是非。
最後に、表紙を飾るのは松平莉奈さんの画。本書の内容をきちんと踏まえた、素晴らしい構図。私は原画を見る機会に恵まれた。松平さんもまたこの共同研究のメンバー。発表もされた。古典を素材に素敵な作品を描いている気鋭の日本画家である。
2021年01月10日
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